2009年7月30日木曜日

暑中お見舞い申し上げます

もうすぐ8月、このところの暑さにはバテ気味です。PCのそばにいるだけでも暑く、このところ、わが来しこのかたの記録も容易な作業ではないことを、実感する今日この頃です。



すでにだいぶまえのことになってしまいましたが、CCC Forumの第2回目のセミナーは47名のみなさんの参加を得て開催されました。講師の松井栄一(しげかず)先生は1926年生まれとのことですから84歳でしょうか。かつての武蔵高校時代の教え子も多数参加されました。私の同期では、大島亮君、佐波吉男君、柴田翔君、山田卓郎君が来られ、大坪秀二先生も来ていただき他の期の皆さんも来られたので、終了後のビアパーティは武蔵高校のミニミニ同窓会風といってもよい形になり、4時半から6時までの予定もあっという間にお開きとなりました。

次回は秋に開催する予定にしていますが、会場の都合と講師の都合を調整がいまのところ未だついておらず公表できないのが残念です。

2009年7月17日金曜日

情報システムのオープン化

かなり時間が経つと日々のことを書いておけば、それが結局は「自分史」のかなり正確な記述として残すことができるし、それをあとで自分が生きているうちは編集も出来るだろうしということで、日記風に記録しておくべきかな、と思ったりもしている。

そこで早速、今夜 T.UさんとS.H教授を交えて新宿の小田急デパートのか中の中華屋で久しぶりに会食して、そこで出た話について書いておきます。(今夜と書きましたが、既に0時を過ぎているので、もう昨夜のことと書くべきことに気づきました。)

そこでの話題は、我が国のe-Japan計画に関連し、地方自治体の基本的な経営のために必要な会計・管理情報システムや人事情報システムのコア部分はどこも利活用可能なのである。したがって、大学が自治体やSI venderと協力して、それらの成果をオープン化する構想をT.Uさんが構想しており、S.H先生の大学でやれると三者win-winの関係が出来るということで話は盛り上がりましたが、結局は学内の専門家と思っている先生方ほど、こういう合理的で我が国の資源の有効活用という構想には乗ってこないからという、この場ではやや盛り上がりに欠ける展開となってしまい、わたしもなんとかサポートできればと考えました。

今後の我が国のかけ声だけでなく、真の情報化が実現されるのはいつのことやら。

政府主導のe-japanであれ、名前がi-japanになったところで、住民サービスとはほど遠い一部の役人と御用学者にとっての自己満足の情報化では公費の無駄使いである。やはり、企業の情報システムと同じく経営管理面で利用できるシステムと、住民サービスのためのシステムとをトータルに設計開発ができなければ使える情報システムとは言えない。我々3人としては今後の可能性を継続して探そうということで別れた次第。



2009年7月13日月曜日

イギリスを知る会

しばらくサボっていましたが、履歴書なるものを書こうと思うと、結構手間暇がかかるということも分かり、また忘却の彼方となってしまい、どうしても思い出せないことがこのままでは益々増えるばかりでもあります。

ま、それは兎も角、昨夜の夕食はなにを食べたかも思い出せないくらいですから、仕方ないのかも知れません。

そこで、もう先週末イギリスを知る会がいつもの中央大学駿河台記念館で開かれたreport 。

今回の講師は、イギリスで7年間滞在し勉強もされて来たViolinistの小林倫子さんでした。テーマは、『イギリスと日本の音楽教育 ~私の音楽留学体験より~』で、大変興味深いお話でした。

概要は、桐朋学園大学在学中に、家の事情がきっかけとなり渡英、イギリスの名門音楽大学Guildhall of Musicに入学しました。

どちらかというと、おとなしい内気な小林さんは、読む、書くはできても話すこととhearingが100%近く出来るようにということを、彼女のviolinのレッスンを受け持つDavid Takeno先生は、彼女にこういった言ったそうです。

violinを弾くにも、西洋の文化を吸収しなければ西欧人の作曲家の作品を理解するにも大事なことと言われて、学生生活を送ったということです。

現在、日本で演奏、教育活動をしながら、留学時代を振り返ってみると、色々なことが見えて貴重な経験をされてきたんだろうな思いました。日本人が西洋音楽を学ぶということと、西洋人が西洋音楽を学ぶということの違いで、楽器を弾くという技術だけでなく、自分の感性がほとばしる様な演奏をということをその時以来心がけているということです。当時すでに80歳になっていたviolinistのRuggiero Ricciの演奏を聴いて、この人でなければ弾けないような演奏にはとても心惹かれるものであったと言われていました。

ですから、人に感動を与えるアーティストは、つけ刃でない身に付いたものが表に現れるから日頃の精進ということでしょう。役者でもたとえば貴族の役ができるのは、それなりの育ちでないと、振る舞い一つきちんとできないという話を聞いたことがあります。それに共通するものが、音楽の表現にしても知らずのうちに醸し出すものかとおもいました。

そして、イギリスの音楽大学Guildhall School of Musicでのカリキュラム、授業内容を、日本の大学と比較しながら紹介して下さいました。イギリスの大学は、卒業にあたっては、必ず順位をつけて合格、非合格を発表し、学生が喜んだり、泣きべそをかいて落胆している女子学生などの光景を、私も何度か見ていますが、小林さんは、見事 master of musicの修士号を首席で修了されています。naitiveに伍してトップを勝ち取るという、難関を突破されたのですから、この方は努力を努力とも思わないで、徹頭徹尾大学でのカリキュラムをきちんとこなして来られたことに敬意の念を抱きました。

見かけは良家のお嬢さんという感じで、とてもそんな立派な経歴を持った方とは思えないほどですが、人は見かけによらないということを改めて実感しました。小林倫子さんに「馬鹿言わないで」といわれそうですが、、、。

なお、彼女のprofileは、以下ですので、参考にしてください。

小林倫子profile:5歳よりヴァイオリンを始める。
桐朋女子高等学校音楽科を経て、桐朋学園大学入学、徳永二男氏に師事。
1997年9月より、ロンドン・ギルドホール音楽院に入学。
2000年、同音楽院からの交換留学生として、ドイツ、ロベルト・シューマン音楽大学にて研修。
2001年、ギルドホール音楽院学士過程主席卒業、翌年修士課程修了。
2003年、コンサート・リサイタル・ディプロマを取得。

その後、室内楽研究員として在籍。在学中は同音楽院からフルスカラシップのほか、野村国際文化財団からも助成を受ける。

クロイドン・シンフォニーオーケストラ・ソリスト・アワード優勝、第69回日本音楽コンクール入選、北ロンドン音楽祭・無伴奏バッハコンクール 優勝、リピッツァー国際ヴァイオリンコンクールにて特別賞受賞。その他国内外にて多くを受賞する。

ソリストとして、クロイドン・シンフォニー・オーケストラ、エプソム・シンフォニー・オーケストラ、ギルドホール交響楽団と共演。ウィグモア・ホールをはじめ、ロンドンの主要リサイタルホールにてリサイタルを開催。

2004年より浜離宮朝日ホールにて定期的にリサイタルを開催。
2009年、ソリストとして東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団と共演した。

現在は日本を拠点に、室内楽、無伴奏リサイタルなど、幅広く活躍中。
2005年より始まった国際音楽講習会「アップビート春期国際音楽セミナー・イン中札内」にてアシスタントをつとめる。 国立音楽大学付属中学、高等学校講師。

いずれ機関紙"Ladies & Gentlemen"にお話の内容が掲載されますので、ご覧になりたい方はお申し出ください。

志村博氏とも久しぶりに会えました。前々日にケンブリッジから来たばかりだということで、Cambrige そばのGlanchester村の有名なリンゴの木の下のCafe から、私たちのために本場のsconeをたくさん持参いただきました。

そして、偶然にも、私が前から知っている松本花奈さんHarpistと志村さんが連れてこられた岩城晶子さんもHarpistということで珍しくも二人のHarpistsにお会いすることができて、あとの小林さんを交えての歓談もあっという間に時間が過ぎた感じでした。

2009年5月4日月曜日

渋谷 桜ヶ丘での生活

私は国民学校1年から3年までの3年間を渋谷駅からすぐの当時の地番で

桜が丘15番地に住んでいた。


その後戦後になってかなり経ってからだが、東京のほとんどの区域が町名が

変更になったり、番地表記も変わったところがほとんどの様な気がする。


国民学校1年生になった年は、紀元2600年ということで、盛んに国威発揚の歌

がうたわれたのもこのときである。


さまざまな記念行事などが行われ市電は花電車などが走ったと思う。


その時のお祭り騒ぎの記憶は僅かに残っており、歌もラジオで流されたのか、

いまでもそのメロディーは耳に残っているほどである。

学校でも歌わされたのかも知れない。

また、体操の時間に教えられたのか手旗信号を憶えたのもこのころである。


というようなことを書いたが、紀元2600年は、その後少し調べてみたら

1940年(昭和15年)の11月に盛大なお祭りが行われたようだ。

したがって、私が国民学校へ入学する前の年だったということになる。

当時、渋谷から神田須田町へ行く市電が走っていて、それが花電車になって

走っていたのを子供心に覚えてもいる。

したがって、我が家が代官山から桜ヶ丘へ引っ越しをしたのも、1940年だった

のかもしれない。(訂正:2009年5月11日)


庭には母親が防空壕を掘っていた。しかし、そんな女手で掘った防空壕が

どれほどの大きさだったのか、私は7歳から8歳になっていたはずであるが、

今になるとハッキリは覚えていないと言った方がいいくらいあやふやである。

父親が手伝っていた姿などは一切記憶もないところから見ると、まったく

手伝っていなかったのであろう。

紀元2600年の奉祝歌のようなものは、ラジオから流れるのを聴いて覚えたか

であろうとすでに書いたが、そのころが学校での唱歌としてはどんなのが

歌われていたのであろうか。私は、歌を唄うのががとても好きであったが、

「ここはお国と何百里離れて遠き満州の、、、、」や、「どんとどんとどんと波乗り越えて~、、、」

などというのを覚えた。


その頃のわが家の2階には、いわゆるゼンマイ式の蓄音器があり、

他には、廣澤虎造の浪曲の何枚組ものSPがあったのも憶えている。

したがって、浪曲も外題はまったくもう忘れてしまったが、親なしててごの哀れを誘う話で、

今でいう義理人情物語というべきものであったと思う。


ほかには、淡谷のりこか高峰三枝子だったかいわゆる流行歌のレコードもその頃聴いて

覚えた記憶がある。


また、ちょうどその頃、上原謙と高峰三枝子主演の映画『愛染かつら』かなにかのロケも

わが家の前の通りで行われ、内容は全く分からないままに見ていた覚えもある。


その頃はまだ映画というものも一度も見た経験もなかったころである。


それでも映画というものの世界がスターたちの服装などから華やかな世界をあつかった

ものじゃないかという想像は働いていたようだ。


しかし、何度も何度も同じシーンを撮り直しの連続であったのを今でも鮮明に記憶に

残っている。



2009年4月6日月曜日

国民学校にまつわる音符の読み方

 わたしが国民学校へ入学した年の12月に大東亜戦争と称して無理な戦争へ突入していったわけだが、全体主義的な軍事国家としての準備は着々となされていたわけで、その4月からの国民学校の指導要領は、音楽の楽譜は、<ドレミファソラシド>のような外国語は使ってはならんというので、それに代わって<ハニホヘトイロハ>を使わされたのです。ですから、和音は、ドミソではなく、ハホトだし、ドファラは、ハヘイというわけです。

 国民学校(=小学校)の一年からハホト~、ハヘイ~などと和音を覚えるのに先生に斉唱させられたものです。でもその前にドミソ、ドファラなどという和音のコードも知らないのですから、殆どの生徒には違和感はなかったわけす。でもこれで教えなければならなかった先生の方は慣れるのに大変だったのではないでしょうか。そのころ、音楽の教育の経験のある方はもう生きておられないでしょうね。

 今でもそうでしょうが一年生の担任をするのは、ベテランが持つということでしたが、ベテランの先生ほ切り替えるのに苦労したのではなどと、いまになって思います。ですから、楽譜を読むのにも、ドソドソドミソというところを、ハトハトハホトと言い換えねばなりません。ですから戦後にはまたドレミが復活した訳ですから、われわれ国民学校へ行ったものでなければこんなことは経験していないことです。

 わたしは、音楽はそれで嫌いになったなどということもなく、すんなり移行はできたかなとは思います。
 
 では、この話題はこの辺で終わっておきます。今となっては、こんな話は聞いたこともない人が多いですよね。

2009年3月6日金曜日

ICS研究会の新規情報をお伝えするBlogを別に開設しました。

このブログの内容をなるべく読んで頂けるものにするために、別に1968年以来、なんとか続いているICS研究会(I=information, C=Control, S=systemsに関する研究会)
のセミナーなどの成果やお知らせなどは、
http://ics-ken.blogspot.com/ に別に専用のブログを開設しました。

これは私が一応、いまのところ管理しますが、メンバー全員でこの活用をしていければよろしいかと思います。

Googleでブログよりももっと適した手段があるからそのうち教えてやると言ってくれた方もいるのですが、まだその情報は貰っていませんので、とりあえずブログということで別に設定したことをお知らせいたします。どんどんアクセスして下さ~い。

メンバー以外の方々も大歓迎です。ぜひお気に入りに登録してください。

2009年2月23日月曜日

21日土曜のこと

わたしの履歴書を書きたいとこのブログを始めましたが、その時々に書き留めておきたいこと、あるいは、紹介しておきたいことがあって、アソーさんのようにブレるねーということになってきていますが、まぁご容赦ください。

一昨日土曜日のことになりますが、朝から家を出て池袋のサンシャインビルで開催されていたクリスマスローズの展覧会へ行きました。わたしはなかなか花の名前はおぼえられませんが、最近日本でも愛好者が増えているとか。らんの世界展なども昔、友人に誘われて後楽園ドームまで観に行ったりしたこともありますが、それに比べるとビルの中ということもあって割と短時間で楽しんできました。

私がそこへ行ったきっかけは、ケンブリッジ在住のアーティストの志村博さんがクリスマスローズばかりでなくケンブリッジの写真を展示しているというので、彼から招待券を頂いたので行きました。

彼はケンブリッジ創立800周年記念のカレンダーの写真を担当していて、ブラシにつけた絵の具で加工したような感じに仕上げた作品のシリーズです。ディジタルで加工してあると思いますが。ケンブリッジエクルプレス大型のカレンダーはなかなかの気の入った作品でした。彼は最近は魚眼レンズでも意欲的な作品づくりをしていて、プラネタリュウムの丸い天井に投影したり楽しいイベントも披露してくれたりしました。

午後は、江古田の武蔵大学へ同窓会と大学で共催している土曜講座に行ってきました。この日の講師は、四條たか子さんの『世界が愛した日本』という彼女の最新刊を基づく講演でした。その後は同窓生を中心としたパーティで大変楽しいひと時でした。

2009年2月20日金曜日

イギリスを知る会

以前、先月の18日に行われた「イギリスを知る会」の新年パーティについて触れましたが、この会は、スタートから今年4月で早いもので20年目に入ります。


簡単に紹介をしておきますと、 「イギリスを知る会」は、イギリス大好き人間の集まりです。1990年4月に現会長の英文学者の宮崎昭威(みやざきてるたけ)先生と活動を開始し、事務局の運営はすべてボランティアで、原則として奇数月の第2土曜日に講座や懇親会などを開催しています。

宮崎先生との出会いは、1976年のロンドンでお会いしてよくパブへ誘っていただいたのがご縁で、このようなイギリスを対象に勉強をする会ができました。

私の専門は、当時から経営情報システム、そして大量生産システムの負の影響についてが関心分野でしたので、ロンドンのAldwitchにあるロンドン大学の政経学部と訳されているL.S.E.へ客員研究員として76年3月14日から翌年の3月末まで滞在していました。

その結果、帰国してからも宮崎先生とはよくお会いしておりましたが、なにか楽しみながらイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドなど英国各地の歴史・文化、文学、映画・音楽、教育、生活習慣、その他さまざまな分野について勉強する場をつくりませんか。ということから、講師の方々のお話を聞き、講演の後では講師の先生の時間が許す限り、お茶などを飲みながらおしゃべりをしています。

また、1993年からイギリス各地の旅に関して多くの著作がある宮崎昭威中央大学名誉教授による小人数の「鉄道でまわる英国の旅」の企画が始まり、英国各地を訪れています。

会員登録された方には、隔月でセミナー・懇親会のご案内やニューズレター「Ladies & Gentlemen」(不定期刊)をお送りするほか、セミナーの参加費が割引になります。(入会金1,000円、年会費4,000円、払込み日から1年間有効)

イギリスへ行ってみたい人、イギリス映画が好きな人、英国紳士に憧れている人、紅茶を飲まないと落着かない人等々、とにかくイギリスに興味がある方は、ぜひ一度参加してみてください。

事 務 局 長:横山 保子(フリー・コーディネーター)
局員:木谷 朋子(旅行ライター&フリー・エディター)、工藤 みゆき(人形作家、文筆家)、竹村 明子(フリー・ライター) などの優秀な方々によって支えられています。

イギリスを知る会 第113回セミナーのお知らせ


テーマ:「イギリスの鉄道民営化とその結果」

講 師: 安藤 陽 さん(埼玉大学教授)


日 時:3月14日(土)午後2時30分~4時30分

場 所:中央大学駿河台記念館 620号室 電話(03)3292-3111 (千代田区神田駿河台3-11-5)
http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/access/access_surugadai_j.html


参加費:会員(および同伴者)2,000円 ビジター 3,000円


参加申込み:「イギリスを知る会事務局」 メール(ssbcjapan.sky@orange.zero.jp)またはFAX(03)3407-8995 

以下は、安藤陽先生からの自己紹介です。

「イギリスを知る会」で報告の機会をいただき、ありがとうございます。 私は、現在、埼玉大学経済学部で経営学を教えています。

専門は公企業論です。特に、日本の国鉄改革や、JR、第三セクター鉄道の経営問題を中心に研究しています。 20歳代後半に一度ヨーロッパ旅行でロンドンに立ち寄りました。

その時の印象は大変悪かったのですが、多くの人が好きなロンドンやイギリスですので、きっと何か素晴らしいところがあるはずだと考え、その時に、今度はイギリス中心に来ようと決めました。

大学に職を得て、1980年代半ば以降、British Railなどの調査や資料収集で度々イギリスを訪問し、イギリスが好きになりました。1998年には在外研究で10ヶ月間ロンドンに滞在し、イギリスの鉄道民営化について調査・研究をしました。

今回の報告では、イギリスの鉄道事業の発展に触れながら、鉄道民営化の構造とその問題点を指摘したいと考えています。日本でもJR福知山線事故が発生しましたが、イギリスでも民営化後、重大事故が頻発しており、鉄道民営化と安全輸送との関係が重要なテーマとなっています。この点に関して、最近の深刻な問題も紹介したいと思います。

パワーポイントを使い(「電子紙芝居」の域をでませんが)、写真を多用しながら、皆さんが経験されている「イギリス鉄道の旅」を再現しつつ、イギリス鉄道民営化とその結果をご理解いただければと思っています。[以上]

お問い合わせは、イギリスを知る会 事務局 横山ssbcjapan.sky@orange.zero.jp へお願いいたします。

私は、安藤先生とは彼が大学院生のころからのお付き合いで、ロンドンでも一時期一緒だったことがあります。今すぐには何年の何月からだったか正確には思い出せませんが、なかなかいいフラットに住んでおられたような気がします。また彼と確認してそのあたりのことも書きたいと思っています。

3月14日(土)の午後に時間のある方は、どうぞお出かけください。彼のお話を聴けるのを楽しみにしております。

受付では私からの紹介と言っていただければ会員料金になるはずです。

2009年2月17日火曜日

楽しみながら学問しよう!

今日は私が2001年の4月から「楽しみながら学問しよう!」をモットーにして、独断と偏見で細々?と続けてきたCCCF(Cross Cultural Communication Forumの略)について、来年度の最初の企画が進んでいますが、その概要をお知らせしておきたいと思います。

イタリア人のバリトン歌手 ロベルト・ボルトルッツィROBERTO BORTOLUZZIさんのリサイタルを企画しました。ピアノは、峯川 知子さんです。

日時:2009.4.12(日) 開演14.00 (開場13.30)
場所: 四谷区民ホール
料金: 3,500円(全自由席) 

です。
曲目など詳細は決定次第、お知らせいたします。

プロフィール
ROBERTO BORTOLUZZI: イタリアのトレヴィーゾ生まれ。往年の大ソプラノ、イヨランダ・ミキエーリに17年間師事。2000年インターナショナル“マリア・カラス”コンクールでセミフィナリスト。その後ソリストとして活動を開始する。2003年“エンツォ・ダラ”コンクールで1位。ヴェルディのオペラではリゴレット、椿姫(ジェルモン)、ナブッコ。プッチーニのオペラではトスカ(スカルピア)、ラ・ボエーム(マルチェロ・ショナール)でデビューするなど数多くの作品に出演している。2007年にはドニゼッティの愛の妙薬のドゥルカマーラでデビューするなどオペラ・ブッファの喜劇役としても才能を発揮している。今年1月にはボエーム(マルチェロ)をクラウディオ・デズデーリの指揮でデビューし好評を博した。現在、若手でベルカント唱法を継承しているイタリアでも数少ない貴重な本格的なバリトン歌手である。

峯川知子: 現在、イタリアにおいても残念ながら正統的なベルカント唱法で歌う歌手は少なくなっており、またそれを指導するマエストロ(先生)もほとんどいないのが現状である。そんな中、ベルカント唱法を継承していた世界3大バリトンの一人(故)アントニオ・サルバドーリ氏から直接その本物のベルカント唱法を伝授された峯川知子氏は、この貴重な教えを日本に伝えたいと歌手への指導やコンサートの活動、ピアニストでありながら自らもベルカント唱法によるソプラノリサイタルを行う。2年前よりボルトルッツィ氏と共にマスタークラスを開催し、イタリア・ヨーロッパ各地でオペラピアニストとして活躍する傍ら、サルバベルカント代表として、イタリアと日本を往復しイタリアオペラの普及にあたっている。

2009年2月7日土曜日

小林倫子さんのリサイタル

これは、先月1月18日に赤坂で行われた「イギリスを知る会」の新年パーティに、ケンブリッジ在住の日本人アーティストの志村博さんも参加され、そのとき我が国で若手バイオリニストとして注目されている小林倫子さんを同道されました。彼女は、ロンドンに7年間住まわれていた方です。

今回、彼女から以下のようなメールをもらいましたので、ご本人の了解を得て転載させて頂きます。


こんにちは。 イギリスを知る会の新年会では、お会い出来て大変光栄でした。突然の余興で演奏させていただき、とても楽しかったですが、コンサートの場では、また別の印象をお楽しみ頂けることと思います。2月11日(祝)に東京でリサイタルを開催いたしますので、ご都合がよろしければ是非お越しください。知られざるイギリスの曲も、演奏します。(わたしのHPへリンクします。)

私は大学生からの7年間をイギリスで過ごしました。イギリスを第2の故郷と思っていますが、一方ではまだまだ知らない事がたくさんあります。

例えば、私はずっとロンドンに住んでいましたので、それ以外の街はあまり知りません。それが昨年、たまたま縁あってケンブリッジでコンサートをしたところ、偶然が重なり、イギリスで活躍する志村氏と知り合うことが出来ました。現在は日本を拠点としていますが、このような出会いを通して、これからもイギリスとの繋がりを継続し、強めていきたいと考えています。音楽や芸術だけでなく、色々な分野の方とも交流できれば、ヴァイオリニスト(表現芸術家)としての懐をを広げていけるのではないかと考えています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。小林倫子

上にある余興での演奏とありますが、まさに会場はせまくて立ちのパーティでしたから、わたしたち40名くらいが取り囲むなかでバッハのガボットとロンドを演奏してくれたのです。。さらにアンコールに応えてパガニーニのカプリースを弾いてくださいました。まじかで聴くプロのソロの演奏はまさに感激ものでした。このような難曲をサラっと弾いてみせるところは、さすがのものでした。

ということで、未だ時間の空いている方は是非一度足を運ばれることをお勧めします。

わたしは当日は別のがあって聴けないのが残念ですが、チケットはまだあるそうなので、どうぞお出かけください。

2009年1月29日木曜日

日フィル

このところ風邪をひきこんでしまい、憂鬱な日々を過ごしております。というのも、この冬はすでに一度ひいているので、まさかもう一度かかるとは思ってもいなかったからです。そのショックは小さくはありません。しかも症状は前とほぼ同じなのです。


というわけで、頭のめぐりもすっきりしないのでブログを書く気にもなれないというのが、本音なのですが、しかし、こういう時期こそなにもまとまったこと(例えば、自室の整理・掃除など)をする気力もないので、ブログを書けばいいのではと思い立った次第。ところが、コンテンツをなにも用意していないのです。


そこで、やはり、自分史の一部に必ず書かなければならないことになる日本フィルハーモニー管弦楽団(略して日フィル)への想いについて記しておこうかと思います。

このオケが創立されたのは、わたしが大学4年生になった年、すなわち1956年(昭和31年)の筈です。というのは、この日フィルの創立記念演奏会が確か9月23日の祭日に、当時はコンサート会場はこれしかなかったといってもいい日比谷公会堂で開かれたのです。

私は、この年の夏休みは、卒論を書くためのネタの収集をしていて、東京通信工業(現在のソニー)の五反田の工場や松下電器(現在はパナソニック)の門真の工場、いまではなくなっている神戸工業の神戸の工場などへ調査に行きました。卒論のテーマは、『電子工業における生産の自動化に関する研究』というものでした。

この卒論については、まだいろいろな思い出がありますので、これについてはまた後日書きたいと思いますが、このころちょうどドイツのシュトックハウゼンやアメリカのジョンケージなどに代表される現代音楽=前衛音楽が盛んで、日本でも黛敏郎、一柳彗などが盛んに自作の演奏会を開催していたりしたのです。 会場は、第一生命ホールや草月会館など。

そして私の音楽好きが高じてこのオケの音を録りたいと思うようになっていたのです。それにはいろいろと前があります。これについてお書き出すときりもないし、今日はやはり体調のこともあり、またのお楽しみということで、失礼します。






2009年1月5日月曜日

老人には仕事を、子供には自然と夢を!

  私の父は、ひとさまからの依頼で色紙を書いていたことがあります。それらにはよく『老人には仕事を、子供には自然を』とありました。このことは年寄りの心境をよく表していると思います。当時は自分は老人の実感は分かりませんでしたが、ここ数年前から世の中みんなが幸せになるには、これを私も受け継ぎたいと思うようになりました。でも父と同じでは能がないと思い、少し加筆して『老人には仕事を、子供には自然と夢を!』としたいと思い、機会あるごとに言ったり書いたりするように心がけています。

  夢を加えたのにはわけがあります。私は、昨年の3月末まで大学で教員をしていたのですが、新入生には将来の夢はということをきくようにしていたのですが、私には考えられないような返事がとても多かったのです。

  まず、「とくにありません。」というものが非常に多いのです。そして、さらに「あいた口がふさがらない」とはこのことだというようなことを平気でいうのです。「もっと遊びたいですからね。」というのです。私はこれを言われた時は、一瞬なにを言ってるのかが分かりませんでした。 

  それは、大学へでも入らなければどこかに就職をしなければならない、したがってまだ働かないで遊びたいからこの大学へ来たというのです。それが一人や二人でないことに私はほんとに驚きました。ですから、こういう学生たちは最初から専門の勉強をして社会へ出て困らないようにしようとか、社会貢献をこういうことでしようとかいう気概を感じる学生が全体の1割にも満たない程度なのです。


  まあ、東大をはじめ一流大学ならそういうこともないのでしょうが、いわゆるF大学すれすれのレベルの大学へ入ってくる学生にはこういう子ども=若者がとても多いということです。私たちの世代はそんなことはなかったように思います。それだけに大学教育はどうあるべきかなどと、こちらが真剣に考えてものってくる学生は1割いればいいほうだということになっているのが現状なのです。


  結局、我々以後の世代が残した高度成長の恩恵に浴して夢もなくぬくぬくと育っている、恵まれた子供たちがあまりにも多いということなのでしょう。将来の天下国家や国のかたちを考えずとも生きていける環境ということなのです。しかし、こういう若者に接するにつけなんと今の閉塞感にそれほどの文句も付けないで大人しくしているのか、とても歯がゆい感じがするのは私だけでしょうか。

  ところで、わたし自身は、まだそんなに老人とは思っていないし、仕事もあれば何でもする覚悟はあるのですが、私が専門とする教育の仕事は未だ見つからず少々焦ってもいる感じになっています。区のシルバー人材センターのガイダンスに参加もしなければと思っています。先日、世田谷区内の新聞販売所でPC入力と集金の仕事ができるパートタイマーを募集していたので、応募しましたが、年齢ではねられてしまいまいた。若者も仕事がない最近の情勢では年寄りいじめもやむを得ないところもあるのかと考えてしまいます。

  それにつけても徳島県の勝西町の『葉っぱビジネス』は、わたしのこのモットーを実現していると感じています。これを仕掛けた××さんは素晴らしいと思います。余談ですが、わたしは、かって国民学校4年から中学1年まで徳島に暮らしたこともあり、一度訪ねてみたい町の一つになっています。

  新年が始まりもっと前向きな話題を書こうと思いながら以上のような中身になってしまいました。

  以上で新年最初のブログはこれで失礼します。