2008年10月10日金曜日

1941年(昭和16年)4月に国民学校へ入学

 1941年は、我が国政府は、参謀本部の思うままにさらなる戦争へ向けて突き進む時代であったが、私はこの年の3月16日に6歳になっていた。したがって、4月からは小学校へ入ることになっていた。前にも書いたがこの名前が私にとっては突如、国民学校と名称が変わったのだ。
 名称だけでなく、それまでの小学校の教科書とはがらりと変わり。国語の最初は、「アカイ アカイ アサヒガ ノボル」で始まっていた。その次のページは何だったかもう思い出せなくなっている。担任の先生の名前は、三浦先生。40歳前後のベテランの女性の先生で、すらっとしたスマートな先生であったのを子供心に憶えている。
 幼稚園には通った経験はない。母がいうには、私が行きたくないというから行かせなかったということだった。そしてその頃の一般的な風潮としては、幼稚園にみんなが行くということでもなかったようだ。その頃の級友の一人には、田中亮三君がいる。彼はのちに慶応義塾に入り、英文学を専攻し、そのまま母校の英語の先生をやり、順調に学者の道を歩んできたようだ。
 私は、1944年(昭和19年)の4月、すなわち4年生になるときに、父親の郷里にいた祖父母の家に一家で疎開をすることになり、当時の友達とは別れてしまった。したがって、私は大和田国民学校(終戦になって再度、名称変更で小学校となった。)を途中で、徳島県の那珂郡羽ノ浦町の岩脇国民学校(のちの岩脇小学校)へ転校させられたわけである。