2018年4月29日日曜日

日フィル成立以前


  2011年1月のブログで日フィルのことを書き、いずれ何故日フィルかをテーマに再度書くと予告してから8年以上が経ってしまった。

  今年はアケ先生生誕100年の年でもあり、まだ不完全ではあるが以下に記しておきたい。

  今は亡きマエストロ渡邉暁雄(あけお)さんについては知る人も少なくなってしまったが、私が大学生になった年、すなわち1953年には東フィルの常任指揮者となっていた。そしてその頃、神田一橋の共立講堂でたびたびコンサートを開催していた。もちろん定期演奏会は日比谷公会堂での開催だったのだが、共立講堂ではややポピュラーな曲目編成で色々なソリストを迎えての公演があり、そこへも通った。

  当時、私は東フィル以外にもN響や東響、海外からのオケや演奏家もよく聴きに行ったのだが、それにもまして渡邉暁雄さんが私の生涯のうちでも一番影響を受けた音楽の先生なのである。これを説明するにもこれまたいくつかの記しておかねばならない事実がある。

  東フィルの歴史的なことの中で重要なことだと私は考えているのだが、向坂正久氏が企画運営していたものに「東フィル友の会」というのがあり、私も大学へ入学して間も無い頃に入会した。この縁で向坂氏とは終生の先輩として懇意にし、彼を通じて渡邉暁雄さんを紹介して頂くことになる。 

  会の企画で毎週のように京橋のブリヂストン美術館のセミナールームを借りてクラシック関連のセミナーが開催された。主任講師は渡邉暁雄氏で他にも当時の有名な音楽学者や評論家〜例えば、山根銀二、辻壮一、深井史郎氏などが講師をされた。これは東フィル友の会とは違い美術の話などもあり、「土曜講座」と銘打たれていたのもあった。

  渡邉先生のテーマは、バッハに始まりモーツアルト、ベートーベン、ブラームスの名曲のアナリーゼはもちろん、「ソナタ形式とは」、「トッカータとフーガとは」、「サラバンドとは」、などなど。全て先生自らピアノを弾いて解説をしてくださった。

  特に印象に残っているのは、当時一般にはまだLPレコードは輸入物しかなく1枚が3,800円もしたのにも関わらず、例えばベートーベンのシンフォニー第5番『運命』を何枚も持参され、それらを聴きながら指揮者によっていかに違うかなどについても話された。他にもブラームスのシンフォニーの1番は「何故ベートーベンの10番と呼ばれるのか」やベートーベンのヴァイオリン協奏曲のアナリーゼなどなど、これらの先生の講義口調は今でも忘れられない独特な雰囲気であっという間に時間がすぎてしまうのであった。

  これらを実現したプロデューサー向坂正久氏は、早稲田の在学中からコンサートの企画などされていて、その後「日本モーツァルト協会」(1955/1/27)の立ち上げや、現在のMusic Pen Club, Japanの前身である音楽執筆者協議会発足などにも力を注ぎ、さらには津田ホール音楽プロデューサーとしても活躍された方です。その彼が企画したのがブリヂストン美術館50年史にはその一部が記録されており、以下は私も聴いた講師のものだけをあげておく。当時の錚々たる顔ぶれでした。

日時        テーマ            講師
1954-11-  7    『音の感じ方』           渡邉暁雄
1954-11-14          『音楽史における宗教音楽の位置』  野村良雄
1955-  1-23          『指揮について』          渡邉暁雄
1955- 2-13           『バッハのカンタータ』       辻 壮一
1955- 5-15           『ベートーベン第九交響曲の聴き方』 渡邉暁雄
1955-10- 2           『ベートーベンのヴァイオリン協奏曲』渡邉暁雄
1955-11- 6            『無調音楽の成立』         入野義郎
1956-10-21           『バッハ』             辻 壮一
1956-11-11            『オーケストラ指揮の話』        渡邉暁雄

  以上のように私にとってはマエストロ渡邉暁雄は30代のバリバリの時期に薫陶を受けたと言っても過言ではないのです。

  そして、1956年には文化放送が民放初の専属オーケストラとして発足します。これらの経緯は、元東響のヴィオラ奏者でのちに文化放送社員となり音楽番組の制作に当たっていた草刈津三氏の著書『私のオーケストラ史−回想と証言−』に詳しく掲載されていますが、私が大学4年の秋、すなわち1956年の9月23日に渡邉暁雄氏が常任指揮者としての日フィルの披露演奏会が日比谷公会で開催されたのです。もちろん、私も友人を誘って会場へ行ったところ、向坂先輩が受付に立って来場者に挨拶をされていたのです。そこで彼も暁雄先生と東フィルから日フィルへ転職したことをきいてやっぱりという想いで立ち話をしたのを今でも鮮明に覚えています。そして彼の横には知的な素敵な女性も立っていて、来年からの定期のチケットはこの方から買うようと紹介された。この方はのちに向坂さんの終生のパートナーとなった加賀禮子さんである。
  
  この時のコンサートマスターはブローダス・アールという方で、その隣にはN響のコンサートマスターだった岩渕龍太郎、フルートには東響にいた林リリ子と峯岸壮一の二人をはじめ、当時のクラシック界の要所要所には錚々たるメンバーがいたことにも私なりに驚いたし、アールさんのメンコンを含めて弦の音を聴いてたりしてすっかり酔いしれて帰宅したのも忘れられない思い出となっていいる。

  当時の大学生の就職事情は詳しくは覚えていないのだが4年の友人たちは理工学部ということもあってメーカーなどへの内定は殆どが9月15日にはほぼ決まっていた。しかし、私は大学へ入ってからは音響工学はじめオーディオ絡みの科目を選択していた関係もあって、いずれ世界的なマエストロの専属ミキサーになりたいう夢を持つようになり、それと並行して放送局に就職先を考えるようになった。それといわば今でいうアケさんの「追っかけ」としては文化放送へ入れば暁雄先生の音も録れるのではと考えたのである。そして11月3日文化の日に在京民放局の一斉試験日に技術職として受験し、幸いにして入社が叶ったのである。
 
   明くる年の1957年の3月下旬には文化放送新入社員研修会が開催され、その講師としてもお話をされたのですが最後に質問があればと言われ、私は誰も質問もしないのも失礼じゃないかなどと思い、今後のプログラム・ビルディングに生意気にも注文をつけたりしたのですが、いつもの様に対応していただき、その頃の若気の至りでの数々の失礼を思い出します。それにも関わらずその後10年にわたり、アケ先生とは日フィル以外にも様々な録音の仕事でご一緒させていただきました。

   当時はまだ15インチテープによるアナログ録音の時代で、弦のアンサンブルの8分音符の箇所だけ切り貼りする様な仕事にもトコトン協力して下さって常に頭が下がる思いでした。ここにこの時代のことを書き記すにも暁雄先生を巡ってはあまりにも多くの仕事をさせて頂いたが、当時の手帳などを保存でもしてあればここに具体的に紹介できるのにと思うことばかりで、当時の成果物は何も手元には残っていない。そして我ながら驚くのだが、