わたしの父親の判断だと思うが、東京に戦禍が及ばないうちにという
考えから、祖父母の家へ父だけを東京に残して引越しをしたのが、
1944年3月末のことだ。
それに伴う転校先は、羽ノ浦町立岩脇国民学校であった。
最初、担任の先生は男性で、廊下を生徒たちは横一列に並ばされ、
乾いた雑巾で床磨きを、「一生鍛練、献身報国」などと唱えさせながら
膝を真っ赤にしながら懸命に作業をしたのが印象的である。
4年の1学期はそれでも比較的のんびりしていたように思うが、
2学期になると担任の先生は兵隊にとられてしまい、代わりに
女性の先生になった。
いまでは考えられないことだが、悪童どもを教壇に立たせ黒板に
立てかけてある大きな三角定規で、片端から頭を叩くような
怖い担任だった。
女性にしては身体も大きく、外足で歩く方でした。
その先生のお名前はここまで書いて思い出した。
その名は池田先生。古庄という町にある池田米店の娘ということ
だった。
その先生は、当時のわれわれにいわゆる名作「宝島」や「岩窟王」
「ガリバー旅行記」などの数々を読み聞かせてくれた。
そして、算数で距離や面積の計算を教えてもらったのを今でも
鮮明に思いだす。
しかし、その頃は教科書も満足になかったのかと思うくらい、私の
記憶にはないのだ。
当時の同級生に訊いてみなきゃと思う次第。
当時の同級生に訊いてみなきゃと思う次第。
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