2014年12月20日土曜日

疎開



わたしの父親の判断だと思うが、東京に戦禍が及ばないうちにという

考えから、祖父母の家へ父だけを東京に残して引越しをしたのが、

1944年3月末のことだ。


それに伴う転校先は、羽ノ浦町立岩脇国民学校であった。


最初、担任の先生は男性で、廊下を生徒たちは横一列に並ばされ、

乾いた雑巾で床磨きを、「一生鍛練、献身報国」などと唱えさせながら

膝を真っ赤にしながら懸命に作業をしたのが印象的である。


4年の1学期はそれでも比較的のんびりしていたように思うが、

2学期になると担任の先生は兵隊にとられてしまい、代わりに

女性の先生になった。


いまでは考えられないことだが、悪童どもを教壇に立たせ黒板に

立てかけてある大きな三角定規で、片端から頭を叩くような

怖い担任だった。


女性にしては身体も大きく、外足で歩く方でした。


その先生のお名前はここまで書いて思い出した。

その名は池田先生。古庄という町にある池田米店の娘ということ

だった。


その先生は、当時のわれわれにいわゆる名作「宝島」や「岩窟王」

「ガリバー旅行記」などの数々を読み聞かせてくれた。


そして、算数で距離や面積の計算を教えてもらったのを今でも

鮮明に思いだす。


しかし、その頃は教科書も満足になかったのかと思うくらい、私の

記憶にはないのだ。


当時の同級生に訊いてみなきゃと思う次第。






2014年12月18日木曜日

徳島の田舎へ


my historyを書こうと思い立ったが、ちょっとしたことで続かなくなってしまっていた。


その原因は、祖母の名前がどうしても思い出せずに時間が経ってしまったのだが、

ひょんなことから思い出した。


その名は、「タケ」さん。旧姓は牧野さんという家から嫁入りしたということだが、

わたしたちが疎開したころには実家は同じ町にあり、農家だったようだ。


甥っ子だという人が陸軍から戦後退役したということで祖母を訪ねてきたことが

あったのを覚えている。


ずんぐりむっくりという体格の人で、珍しい名前でツナオ(綱男)さんと云ってました。

名前としては珍しい部類なので、よく憶えている。


父が養子に入った家は、実の父の兄の家で、それが一樂善蔵とタケさん夫妻の家。

私の祖父母に当たるわけ。


私が国民学校4年の4月からは、その祖父母の家から通うことになった。


体育館は小さいし、跳び箱は汚いし、同級でも青っ鼻を垂らしているのがいたりして、

やはり東京の学校とはずい分違うというか、子供心に地方と都会の格差を感じた

というと、オーバーかな?


忘れないうちに書き留めておくと、疎開先の祖父母が住んでいたのは、徳島県那珂郡

 羽ノ浦町大字岩脇字町筋20番地の3だったとおもう。現在は羽ノ浦町が土地を買い

上げて、消防車の車庫として使用しているのではと思う。








my historyを復活させます。

長い間さぼっていました。



どこまで書いたかを自分でも忘れるほど、これには書いていませんでした。


中断していた一つの理由は、父方の祖母の名前がすんなり出て来なくて、

どうにか調べて正確な名前を記しておかねば、と思ったからなのです。


しかし、それにしても長い休止でした。


今日までの間に人それぞれ様々なことがあったことと思います。


わたしは根が気楽なせいか、過去にどういうことがあったかなど、


きちんと憶えていられないのです。



とはいっても、先日の14日の日曜日には、まだ2年しか経っていないのに

解散総選挙をやり、安倍のバカたれ総理のおかげで、子供時代のいやな

戦争に伴う経験を否が応でも思い出させられました。


同時代の有名人、三輪明宏氏はじめ、大橋巨泉氏、宝田明氏、

故菅原文太氏、倉本聡氏などが一斉に安倍内閣の戦前を思わせるような

方向への回帰について、反対を表明しています。


吉永小百合は、これらの人々よりも若いけれども同じように声を上げて

いたのが印象的です。

それにしても、小泉、細川元総理組は選挙中は動かなかったのか、

なにも聞こえて来なかったのは不思議だ。

もっと反原発を彼らが争点にしてくれることを期待していたのに。


マスコミが無視したのかも知れないですが。わたしとしては彼らにも

期待しているんだけどなぁ。


My historyから話がそれたと思う方もいるかな?

こういうことも後日は「わたしの」という形容詞はとれるものの、

わが国のヒストリーとしては上にあげた人々のことは、残しておきたいと思う。


今後はわが履歴にかかわりそうな事柄については、なんでも書くことにして

いこうと思う。


次回からは1940年代にもどって書くようにしよう。