このところ風邪をひきこんでしまい、憂鬱な日々を過ごしております。というのも、この冬はすでに一度ひいているので、まさかもう一度かかるとは思ってもいなかったからです。そのショックは小さくはありません。しかも症状は前とほぼ同じなのです。
というわけで、頭のめぐりもすっきりしないのでブログを書く気にもなれないというのが、本音なのですが、しかし、こういう時期こそなにもまとまったこと(例えば、自室の整理・掃除など)をする気力もないので、ブログを書けばいいのではと思い立った次第。ところが、コンテンツをなにも用意していないのです。
そこで、やはり、自分史の一部に必ず書かなければならないことになる日本フィルハーモニー管弦楽団(略して日フィル)への想いについて記しておこうかと思います。
このオケが創立されたのは、わたしが大学4年生になった年、すなわち1956年(昭和31年)の筈です。というのは、この日フィルの創立記念演奏会が確か9月23日の祭日に、当時はコンサート会場はこれしかなかったといってもいい日比谷公会堂で開かれたのです。
私は、この年の夏休みは、卒論を書くためのネタの収集をしていて、東京通信工業(現在のソニー)の五反田の工場や松下電器(現在はパナソニック)の門真の工場、いまではなくなっている神戸工業の神戸の工場などへ調査に行きました。卒論のテーマは、『電子工業における生産の自動化に関する研究』というものでした。
この卒論については、まだいろいろな思い出がありますので、これについてはまた後日書きたいと思いますが、このころちょうどドイツのシュトックハウゼンやアメリカのジョンケージなどに代表される現代音楽=前衛音楽が盛んで、日本でも黛敏郎、一柳彗などが盛んに自作の演奏会を開催していたりしたのです。 会場は、第一生命ホールや草月会館など。
そして私の音楽好きが高じてこのオケの音を録りたいと思うようになっていたのです。それにはいろいろと前があります。これについてお書き出すときりもないし、今日はやはり体調のこともあり、またのお楽しみということで、失礼します。
ブログを利用して『一樂信雄の自分史』のタイトルのもとに書き始めましたが、書く順序にこだわり過ぎるとなかなか書けないことに気付き、わが人生に関係のあることは順序にこだわらず書きとめることに方針変更しますので、よろしく。
2009年1月5日月曜日
老人には仕事を、子供には自然と夢を!
私の父は、ひとさまからの依頼で色紙を書いていたことがあります。それらにはよく『老人には仕事を、子供には自然を』とありました。このことは年寄りの心境をよく表していると思います。当時は自分は老人の実感は分かりませんでしたが、ここ数年前から世の中みんなが幸せになるには、これを私も受け継ぎたいと思うようになりました。でも父と同じでは能がないと思い、少し加筆して『老人には仕事を、子供には自然と夢を!』としたいと思い、機会あるごとに言ったり書いたりするように心がけています。
夢を加えたのにはわけがあります。私は、昨年の3月末まで大学で教員をしていたのですが、新入生には将来の夢はということをきくようにしていたのですが、私には考えられないような返事がとても多かったのです。
まず、「とくにありません。」というものが非常に多いのです。そして、さらに「あいた口がふさがらない」とはこのことだというようなことを平気でいうのです。「もっと遊びたいですからね。」というのです。私はこれを言われた時は、一瞬なにを言ってるのかが分かりませんでした。
それは、大学へでも入らなければどこかに就職をしなければならない、したがってまだ働かないで遊びたいからこの大学へ来たというのです。それが一人や二人でないことに私はほんとに驚きました。ですから、こういう学生たちは最初から専門の勉強をして社会へ出て困らないようにしようとか、社会貢献をこういうことでしようとかいう気概を感じる学生が全体の1割にも満たない程度なのです。
まあ、東大をはじめ一流大学ならそういうこともないのでしょうが、いわゆるF大学すれすれのレベルの大学へ入ってくる学生にはこういう子ども=若者がとても多いということです。私たちの世代はそんなことはなかったように思います。それだけに大学教育はどうあるべきかなどと、こちらが真剣に考えてものってくる学生は1割いればいいほうだということになっているのが現状なのです。
結局、我々以後の世代が残した高度成長の恩恵に浴して夢もなくぬくぬくと育っている、恵まれた子供たちがあまりにも多いということなのでしょう。将来の天下国家や国のかたちを考えずとも生きていける環境ということなのです。しかし、こういう若者に接するにつけなんと今の閉塞感にそれほどの文句も付けないで大人しくしているのか、とても歯がゆい感じがするのは私だけでしょうか。
ところで、わたし自身は、まだそんなに老人とは思っていないし、仕事もあれば何でもする覚悟はあるのですが、私が専門とする教育の仕事は未だ見つからず少々焦ってもいる感じになっています。区のシルバー人材センターのガイダンスに参加もしなければと思っています。先日、世田谷区内の新聞販売所でPC入力と集金の仕事ができるパートタイマーを募集していたので、応募しましたが、年齢ではねられてしまいまいた。若者も仕事がない最近の情勢では年寄りいじめもやむを得ないところもあるのかと考えてしまいます。
それにつけても徳島県の勝西町の『葉っぱビジネス』は、わたしのこのモットーを実現していると感じています。これを仕掛けた××さんは素晴らしいと思います。余談ですが、わたしは、かって国民学校4年から中学1年まで徳島に暮らしたこともあり、一度訪ねてみたい町の一つになっています。
夢を加えたのにはわけがあります。私は、昨年の3月末まで大学で教員をしていたのですが、新入生には将来の夢はということをきくようにしていたのですが、私には考えられないような返事がとても多かったのです。
まず、「とくにありません。」というものが非常に多いのです。そして、さらに「あいた口がふさがらない」とはこのことだというようなことを平気でいうのです。「もっと遊びたいですからね。」というのです。私はこれを言われた時は、一瞬なにを言ってるのかが分かりませんでした。
それは、大学へでも入らなければどこかに就職をしなければならない、したがってまだ働かないで遊びたいからこの大学へ来たというのです。それが一人や二人でないことに私はほんとに驚きました。ですから、こういう学生たちは最初から専門の勉強をして社会へ出て困らないようにしようとか、社会貢献をこういうことでしようとかいう気概を感じる学生が全体の1割にも満たない程度なのです。
まあ、東大をはじめ一流大学ならそういうこともないのでしょうが、いわゆるF大学すれすれのレベルの大学へ入ってくる学生にはこういう子ども=若者がとても多いということです。私たちの世代はそんなことはなかったように思います。それだけに大学教育はどうあるべきかなどと、こちらが真剣に考えてものってくる学生は1割いればいいほうだということになっているのが現状なのです。
結局、我々以後の世代が残した高度成長の恩恵に浴して夢もなくぬくぬくと育っている、恵まれた子供たちがあまりにも多いということなのでしょう。将来の天下国家や国のかたちを考えずとも生きていける環境ということなのです。しかし、こういう若者に接するにつけなんと今の閉塞感にそれほどの文句も付けないで大人しくしているのか、とても歯がゆい感じがするのは私だけでしょうか。
ところで、わたし自身は、まだそんなに老人とは思っていないし、仕事もあれば何でもする覚悟はあるのですが、私が専門とする教育の仕事は未だ見つからず少々焦ってもいる感じになっています。区のシルバー人材センターのガイダンスに参加もしなければと思っています。先日、世田谷区内の新聞販売所でPC入力と集金の仕事ができるパートタイマーを募集していたので、応募しましたが、年齢ではねられてしまいまいた。若者も仕事がない最近の情勢では年寄りいじめもやむを得ないところもあるのかと考えてしまいます。
それにつけても徳島県の勝西町の『葉っぱビジネス』は、わたしのこのモットーを実現していると感じています。これを仕掛けた××さんは素晴らしいと思います。余談ですが、わたしは、かって国民学校4年から中学1年まで徳島に暮らしたこともあり、一度訪ねてみたい町の一つになっています。
新年が始まりもっと前向きな話題を書こうと思いながら以上のような中身になってしまいました。
以上で新年最初のブログはこれで失礼します。
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