ブログを利用して『一樂信雄の自分史』のタイトルのもとに書き始めましたが、書く順序にこだわり過ぎるとなかなか書けないことに気付き、わが人生に関係のあることは順序にこだわらず書きとめることに方針変更しますので、よろしく。
2015年1月13日火曜日
渋谷区桜ヶ丘15番地
わたしが国民学校へ入学した年、すなわち1941年(昭和16年)の
12月8日が日米開戦の日である。その前から日清・日露・日中戦争があり、
世の中は戦後の様に平穏ではなかった。
わたしは、当時、前にも書いたが、今は渋谷区桜丘町となっているが、
当時は、渋谷区桜が丘15番地にある借家に住んでいた。
大家さんは同じ番地の我が家から出て渋谷駅方面に下る坂をすぐ
右へ曲がった右手にある、うっそうとした大木が生えている、立派な門構えの
家で蜷川さんというお宅だった。
我が家はいわば突き当りにあり、右隣もやはり同じ蜷川さんの持ち家で
そこには、父の1年か2年先輩の同じ勤め先の窪田さん一家が住んでいた。
私と同年のやすし君とはよく遊んだ。学校は別の私立の暁星に通って
いたように記憶している。
彼には2歳くらい上の「ただし」さんという兄もいて、同じ制服で通って
いた。
当時の大和田国民学校での同級生で20年ほど前に再開した唯一の
友人が慶応義塾大学の法学部で英文学の教授をしていた田中亮三君である。
彼はすでに鬼籍に入ってしまったが、生前、ゆっくり二人で語り合いたい
と思っていたのに果たせなかったのは、残念である。彼は最後まで桜ヶ丘に
住み続けていたようなので、他の同級生の消息なども聴きたかった。
今となっては何も当時のクラスメイトについての手がかりがないのだ。
彼とも桜ヶ丘当時はよく彼の家にも遊びに行った。当時の番地は
19番地だったかな。角地に家が建っていたように記憶している。
彼は慶応大の英文科を出て、最終的には母校の法学部の英語の
先生として、活躍し英国の貴族階級のことについて研究していたようだ。
ようだというのも、私と彼は全く専門が違う分野だったので、研究に
まつわる話は一度だけ、「イギリスを知る会」の講師としてしゃべったのをきいた
程度なので、断定的には書けない。
慶応義塾大学を定年後は尚美音楽大学の教授に就任していたが、
肝臓がんで亡くなった。合掌。
6,7歳のころの思い出
わたしは、いまで言う小学校の6年間の前半は、東京渋谷の
大和田町にあった当時の国民学校に通った。
その頃のことで、よく覚えているのは1年生の時の学芸会で
中味はまったく憶えていないが、舞台で少しのセリフをお覚て
芝居らしきことをやった。
終了後、担任の三浦先生からとても褒めてもらった。
それから幼い僕は、将来は役者になりたいと思い、それを叔母に
話をした。当時、父親の妹が我が家に居候をして、私は結構
なついていた。
叔母にはのぶちゃんと呼ばれていたが、ある時、彼女から
「のぶちゃんは、鼻べちゃだから役者はむりだね。」と言われ
ショックを受け、それ以後、自分の顔にはまったく自信をなくし、
それはいまでもいわばトラウマになっている。
当時は、役者と云えば、「上原 謙」か「長谷川一夫」の時代だから
叔母は、この子が道を誤ったら可哀そうだと思ったのであろうが、
それは子供心にもショックだったのは、それ以後顔、その中でも
とくに鼻を観察することが多くなった。
しかし、親戚であろうが、顔のことをとやかく言うのは良くないと思う。
最近のお笑い番組などでも、よく相手の顔などをネタにしたりしているが、
あのような番組を見て育つような子供は、一体、大人になって
人の顔をお笑いのネタにしたりしないかと、気になるところだ。
このことに関連して、国民学校(今の小学校)の3年の時には、これまた
ショックなことが起こったのだが、これは次回に書こうと思う。
- 国民学校については、 http://goo.gl/Yc2c3s を参照。
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