代官山での思い出は、夏には近くの西郷山へ父と蝉取りに行ったのをいまでもよく想い出す。信号の名前で残っており、よく車で都心から我が家へ帰るときに通るところだ。また、父との想い出は、夏どきなど夕食後によく散歩に行こうと誘われ、恵比寿駅の本屋へ連れて行かれたのを覚えている。そこでたまに絵本などを買ってくれたりもした。しかし、その頃はそれほど本や漫画には興味もなく「のらくろ」や「ふくちゃん」などの漫画の載った絵本は、子供でも見られる低い場所に置いてあったのは憶えているが、買ってくれとは言わなかった。
丁度、学校へ上がる頃は、前にも書いたように、現在『南国酒家』という中華料理屋になっているビルのある場所へ引っ越した。当時の番地では桜ケ丘15番地である。今の地図では桜丘町14番となっている。おそらくこの後に**号という地番が付くのであろう。
当時は、木造2階建ての住宅で、広さはどのくらいだったのだろうか、1階の玄関を入ると左側には食事をする部屋があり、その奥に台所と風呂場があった。玄関の奥には2階への階段があった。右側にはいくつ部屋があったのか記憶は定かではないが、食事以外の時間は1階の部屋で生活をしていたから二部屋以上あったかもしれない。2階には8畳の床の間のある部屋とその手前には、6畳の部屋には物干し用のベランダが付いていたのもよく憶えている。通りに面した側にあったので、ちょうどT字路の突き当たりだ。そのベランダに上がると区立大和田国民学校が正面に通る道路の左手に見えた。その頃は手前に校舎を遮る高い建物もなかったので、見通せたものだ。そして、手前の角にはコンクリートの建物があり、タイに関係のあるビルだと言っていた。そしてその向こうには、長尾医院というのがあり、そこには同年くらいの娘さんがいて、遊びに行って人気のあまりない広い家だなぁという印象が残っている。
ちなみにこの家の大家さんはすぐ裏手にあり、我が家の玄関を出るとすぐ右へ行き、そのブロックの先を右折すると右側に立派なお屋敷と門構えをもったお宅があり、「蜷川」という表札がかかっていた。おそらくこの場所にあるいまのビルは、当時の蜷川さんの地所だったものであろう。蜷川家の門は、それは立派なもので、庭には大きな木が鬱蒼と生えていた。その門はいつも閉まっていて中の家がどうなっているかなどは知るよしもなかった。
我が家にも南側にはそれほど広くはなかったが庭があり、その庭に戦局慌ただしくなるにつけ防空壕を掘ったりしていた。昭和17年から18年ころにかけてのことだったと思う。母が泥だらけになっていたのを覚えている。今思うと当時の母親はずいぶん大変だった。代官山時代は、我が家は叔母を含めると6人家族だったのが、桜ケ丘に引っ越した年の12月にはもう一人生まれている。開戦一週間が経った15日である。このときの事もよくおぼえている。それは母親が陣痛を起こし、病院へ行くことになり、早朝、渋谷駅の方まで降りて行きタクシーを拾いに出かけた。父親は出張で留守。同居していた叔母もどういうわけだったか、その日はいなかった。私は小学校(国民学校)1年生であったが、ここは自分がしっかりしないとという自覚をした最初の出来事だったような気がする。そうして兄弟が4人になり、我が家の家族も叔母を含めて7人ということになったのである。
桜丘時代の学校での生活はどうだったかというと、私は3月生まれなので、同学年の中では一番若い方に近く、背丈は小さくクラスでは一番前だったかと思う。それもあってか、鉄棒とか跳び箱は苦手で、体操の時間が嬉しくなかったのは確かだ。1,2年の時はそれ以外の科目では負けることもなく順調に過ごせたと思う。1年生の時の学芸会では、みんなで芝居をやり担任の先生に褒めてもらい、その時から将来は役者になりたいと思っていた。(いまとなればお笑いだが。)しかし、その夢はすぐに砕かれることになる。これが私の挫折と言えば大げさだが先ずその第一歩を味わうことになる。(この続きは、また次回で。)
いまとなっては、桜ケ丘に引っ越した時期は、昭和15年(1940年)の秋ごろから翌年の3月までの間ということくらいしか分からないが、父の夕食後の散歩の行先は、渋谷の道玄坂に変わった。
当時の道玄坂は、百軒店の方までいわゆる夜店が毎晩のように出ていたのではないか。とにかく当時からとても賑やかだった。その夜店を見ながら百軒店の近くにあった「白十字」という洋食屋のよに入り、クリームソーダを食べるのが楽しみだった。その時、父親が何を食べていたのかはまったく覚えていないが。そして、帰りには夜店で「吹き矢」や「ひご飛行機」のキットを買ってもらったりしたものだ。
小学校(当時は国民学校)での思い出は、まず入学式の2,3日前だったと思うのだが、母親に新しい運動靴の紐の結び方を教えてもらったのをいまでも鮮明におぼえている。それからそれよりももっと前に、道玄坂のだいぶ上の方の向かって左側にあった店で帽子を買ってくれた。区立の学校だから制服はなかったと思うが、帽子は紋章がありそれを付けたのを買ってくれたと思う。このときに随分頭が大きいといわれ(背が小さいのに)、お店のおじさんんが君は頭がいい証拠だというようなことを言われ子供心に嬉しかったのを憶えている。コンプレックスになるところをうまく救ってくれたようだ。
戦争になってからはいつまでその夜店が続いていたのかは分からないが、そこで吹き矢やひご飛行機の組み立てセットなどを買ってもらった。
当時の遊び道具といえば、大和田小学校(当時は国民学校)のすぐ前の角に文房具屋兼駄菓子屋のような店があり、親から1銭玉を一つもらってそれを握りしめてお相撲さんの写真を買いに行ったりした。当時はお相撲さんの写真が紙の袋に入れてあり、それらにひもを通して束ねてある。それをくじを引くように、その束の中から引っ張って取り、それで袋からとり出して初めてどのお相撲さんの写真かが分かるという仕組みであった。自分の欲しいお相撲さんだと嬉れてしいが、あまりファンでないのが出てくるとはずれという感じになるのだった。大きさは名刺くらいのものだったろうか。当時のわれわれはラジオでの中継は聴けたが、どんな大きさで体形がどうかなどというのはこういう写真でイメージを作っていた。恰好の良いのと、背ばかり高くていかつい骨格をしているなとか、そういう写真から得ていたわけである。中でも子供心に可愛いお相撲さんという感じでは、「照国」などという人がいました。他には、双葉山、羽黒山、男女川?いまになるとほとんど忘れてしまった。(続く)。
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