私の頃は現在のように幼稚園へ行くという慣習は無かったようで、しかも親は国民学校へ入る前にカタカナやひらがなも教えられたりした事も無く、ただ一つ一年生になる前の準備として母親が道玄坂をかなり登った左側の帽子屋へ連れて行かれ、学帽を買ってもらった。それともう一つ紐付きのズック靴の紐の結び方を教えてもらったのは鮮明に覚えている。靴も当然サイズが合わなければ履けないのだから一緒に買いに行ったのかもしれないが、その辺りは記憶はない。
1941年4月に入学したのは東京市渋谷区立大和田国民学校(3月までは区立大和田小学校と呼ばれていた)。我が国は、その年の12月8日に大東亜戦争に突入した。この日は妹の5歳の誕生日でもありその記憶と、その月の16日には二人目の弟が生まれたのでこの頃のことは鮮明に覚えている。
私が生まれたのは当時日赤産院と呼ばれていたそうだが、現在の広尾にある日本赤十字病院。住まいは代官山にあった同潤会アパート。5歳の時に渋谷駅へ3分ほどの桜ヶ丘15番地引っ越した。現在は桜丘町となって地番も変わってしまったが、当時はこの番地であったことはよくおぼえている。この家は木造2階建、全て畳で洋間はなし。今風には3LDKということになろうか。2階のひと間には床の間があり、子供の私には陰気な感じの山水画の掛け軸が飾ってあった。そしてその部屋にはゼンマイ式の蓄音機が置いてあり、藤原義江や李香蘭はじめ廣澤虎造などがSP版が置いてあり、自分で針も交換したりしてかけたものだ。
1944年の3月には戦況も厳しくなり東京はいずれ空襲を逃れられない、と父親は予測をしていたようで、その4月私が4年生になると同時に父親の実家があった徳島の田舎に疎開をし祖父母の家に世話になった。この時通ったのが徳島県那賀郡羽ノ浦町立岩脇国民学校であり、卒業が終戦の翌年度の1947年の3月である。この4月から3年間の新制中学が発足し同じ場所での中学(町立羽ノ浦中学校)に通うことになる。それまでは尋常科の生徒が使っていた教室が中学になっただけである。
1945年8月15日についにというか、やっとというか我が政府は勝ち目なしと気付いたのか、ポツダム宣言を受託降伏したのである。この日は夏休みで朝から妙見山の中に陸軍の通信基地があり、そこへいつものように遊びに行っていたら、今日は天皇陛下からの放送があるから家へ帰って聴きなさいというようなことを兵隊さんから言われたのが、この日であった。
戦後民主教育体制が敷かれ、いわゆる六三三制となるまで、すなわち国民学校の最後に6年生で卒業する年には受験すべく準備していた中学校は、新制高校となり、われわれは義務教育となった新制中学校へ進む。場所も担任の先生も変わらず国民学校で2年間担当だった石川先生が英語や数学、国語などほとんどの科目を担当された。
1950年すなわち昭和25年に高校生になった。もちろん高校の前は戦後新たに生まれた新制中学に通った。
1953年(昭和28年)の4月から早稲田大学第一理工学部工業経営学科に入学する。
そこで、やはり、自分史の一部に必ず書かなければならないことになる日本フィルハーモニー管弦楽団(略して日フィル)への想いについて記しておこうかと思います。
このオケが創立されたのは、わたしが大学4年生になった年、すなわち1956年(昭和31年)の筈です。というのは、この日フィルの創立記念演奏会が確か9月23日の祭日に、当時はコンサート会場はこれしかなかったといってもいい日比谷公会堂で開かれたのです。
私は、この年の夏休みは、卒論を書くためのネタの収集をしていて、東京通信工業(現在のソニー)の五反田の工場や松下電器(現在はパナソニック)の門真の工場、いまではなくなっている神戸工業の神戸の工場などへ調査に行きました。卒論のテーマは、『電子工業における生産の自動化に関する研究』というものでした。
この卒論については、まだいろいろな思い出がありますので、これについてはまた後日書きたいと思いますが、このころちょうどドイツのシュトックハウゼンやアメリカのジョンケージなどに代表される現代音楽=前衛音楽が盛んで、日本でも黛敏郎、一柳彗などが盛んに自作の演奏会を開催していたりしたのです。 会場は、第一生命ホールや草月会館など。
そして私の音楽好きが高じてこのオケの音を録りたいと思うようになっていたのです。