2019年8月17日土曜日

マエストロ渡邉暁雄生誕100年に因んで


    20111月のブログで日フィルのことを書き、いずれ何故日フィルかをテーマに再度書くと予告してから8年以上が経ってしまった。

 今は亡きマエストロ渡邉暁雄(あけお)さんについては知る人も少なくなったが、今年は彼の生誕100年の年でもあり、記念演奏会を含めていくつかのイベントが開催される。

 私が大学生になった1953年には東フィルの常任指揮者として活躍されていた。 その頃、クラシックのコンサートは日比谷公会堂が主で、まだもない時代で、東フィルいわゆる名曲コンサートは神田共立講堂で開催された。色々なソリストを迎えての公演があり、そこへもよく通った。

  当時、私は東フィル以外にもN響や東響、海外からのオケやソリストもよく聴きに行ったのだが、それにもまして渡邉暁雄さんが私の生涯のうちでも一番影響を受けた音楽の先生なのである。これを説明するにもこれまたいくつかの記しておかねばならない事実がある。

  東フィルの歴史的なことの中で重要なことだと私は考えているのだが、向坂正久さんが企画運営していたものに「東フィル友の会」というのがあり、私も大学へ入学して間も無い頃に入会した。この縁で向坂さんとは終生の先輩として懇意にしていただき、彼を通じて渡邉暁雄さんを京橋のブリヂストン美術館のセミナーで紹介されることになる。 

  それは東フィル友の会の企画で、毎週のように京橋のブリヂストン美術館のセミナールームを借りてクラシック関連のセミナーが開催された。主な講師は渡邉暁雄さんで他にも当時の有名な音楽学者や評論家~例えば、山根銀二、辻壮一、深井史郎さんなどが講師をされた。

  渡邉先生のテーマは、バッハに始まりモーツアルト、ベートーベン、ブラームスの名曲のアナリーゼはもちろん、「ソナタ形式とは」、「トッカータとフーガとは」、「サラバンドとは」、などなど。全て先生自らピアノを弾いて解説をしてくださった。

  特に印象に残っているのは、当時一般にはまだLPは輸入物しかなく1枚が3,800円もしたにも関わらずベートーベンのシンフォニー第5番『運命』を何枚も持参され、それらを聴きながら指揮者によっていかに違うかなどについても話された。他にもブラームスのシンフォニーの1番は「何故ベートーベンの10番と呼ばれるのか」やベートーベンのヴァイオリン協奏曲のアナリーゼなど、音大の学生でなければ聞けないような講義を友の会でされたのです。

  この向坂正久氏とは早稲田の学生の時代からコンサートの企画などもしており、一方「日本モーツァルト協会」の創立にも関わった方です。『東フィル友の会』の企画したセミナーがどの期間に何回開催されたかの記録は今の所見つかっていないが、2002年に出版された『ブリヂストン美術館50年史』には特に東フィル友の会の名称は出てこないが、これらの中で私が出席したセミナーをピックアップしてみた。

日時        テーマ            講師
1954-11-       『音の感じ方』           渡邉暁雄
1954-11-14          『音楽史における宗教音楽の位置』  野村良雄
1955- 1-23           『指揮について』          渡邉暁雄
1955- 2-13           『バッハのカンタータ』       辻 壮一
1955- 5-15           『ベートーベン第九交響曲の聴き方』 渡邉暁雄
1955- 9-25           『バルトーク十年忌に際して』      柴田南雄
1955-10- 2           『ベートーベンのヴァイオリン協奏曲』渡邉暁雄
1955-11- 6           『無調音楽の成立』         入野義郎
1956-10-21          『バッハ』             辻 壮一
1956-11-11          『オーケストラ指揮の話』      渡邉暁雄

他には上にも述べたように暁雄先生からはレコード・コンサートでも解説を様々なテーマでしていただいた。これ以外にも東フィルの定期や共立講堂でのコンサートをかなりの頻度で指揮されていたのだから、当時の暁雄先生がいくら30代とはいえ凄いことだったと思う。

  その後、私が大学4年になった年に渡邉暁雄さんが文化放送の専属オーケストラとして日フィルを創設。その間の事情については草刈津三さんが書かれた『私のオーケストラ史回想と証言』にくわしいが、当時は民放初の専属オーケストラということで話題になった。

  その年の923日に日フィルの披露宴演奏会が日比谷公会堂で開催され、わたしも高校時代の友人二人と行ったのだが、その時受付には向坂先輩が立ってお客様を迎えていて暁雄さんと行動を共にされたのだということを知り、びっくりしたのを覚えている。

  この日フィルの演奏は、「魔笛」の序曲で始まりコンサートマスターがブローダス・アールでその横にはN響のコンサートマスターだった岩渕龍太郎が陣取っていたのでこれにもびっくりした。そしてフルートは東響にいた林リリ子と峯岸壮一、オーボエは鈴木清三、ファゴットは戸沢宗男、チェロは松下修也、ヴィオラ河野俊逹はじめ多くは東響・東フィルの舞台で顔馴染みの方々が多くいたので当時の腕利きの面々を引き抜いで編成したのだなあと、これまた驚いたのです。

  セミナーを通してマエストロの薫陶を受けた者としては、この披露演奏会のあと渡邉暁雄先生との日フィルの音を録るには文化放送へ入るしかないという思いが強くなり、忘れもしない113日の文化の日に入社試験が上智大学であった。この1956年は景気も上向いていたのか、幸いにも採用人員も多く合格できたのである。

  そして翌年3月末に一週間の社内新人研修会があり、そこでもアケ先生が講師をされました。最後に質問を誰もしないので、生意気にもこれからのプログラム・ビルディングに注文をつけたりしても、それも優しく頷いてくださったことなど、様々な想い出が蘇ります。


未完!!!!!!!!!!!


2019年5月6日月曜日

1941年国民学校入学から50年代memory

以前私は小学校には行っていないと書いたが、1941年(昭和16年)4月から本来の小学生になる予定であった。それがその年度から国は小学校を国民学校に名称を変え、それが終戦の翌々年の3月まで続くのである。その結果小学校ではなく国民学校しか行ってないのだ。「僕は小学校には行ってないんだ。」というのはおかしなことではなく、この1941年度の入学生は誰しもみな同じ目にあっている訳だ。

私の頃は現在のように幼稚園へ行くという慣習は無かったようで、しかも親は国民学校へ入る前にカタカナやひらがなも教えられたりした事も無く、ただ一つ一年生になる前の準備として母親が道玄坂をかなり登った左側の帽子屋へ連れて行かれ、学帽を買ってもらった。それともう一つ紐付きのズック靴の紐の結び方を教えてもらったのは鮮明に覚えている。靴も当然サイズが合わなければ履けないのだから一緒に買いに行ったのかもしれないが、その辺りは記憶はない。

1941年4月に入学したのは東京市渋谷区立大和田国民学校(3月までは区立大和田小学校と呼ばれていた)。我が国は、その年の12月8日に大東亜戦争に突入した。この日は妹の5歳の誕生日でもありその記憶と、その月の16日には二人目の弟が生まれたのでこの頃のことは鮮明に覚えている。

私が生まれたのは当時日赤産院と呼ばれていたそうだが、現在の広尾にある日本赤十字病院。住まいは代官山にあった同潤会アパート。5歳の時に渋谷駅へ3分ほどの桜ヶ丘15番地引っ越した。現在は桜丘町となって地番も変わってしまったが、当時はこの番地であったことはよくおぼえている。この家は木造2階建、全て畳で洋間はなし。今風には3LDKということになろうか。2階のひと間には床の間があり、子供の私には陰気な感じの山水画の掛け軸が飾ってあった。そしてその部屋にはゼンマイ式の蓄音機が置いてあり、藤原義江や李香蘭はじめ廣澤虎造などがSP版が置いてあり、自分で針も交換したりしてかけたものだ。

1944年の3月には戦況も厳しくなり東京はいずれ空襲を逃れられない、と父親は予測をしていたようで、その4月私が4年生になると同時に父親の実家があった徳島の田舎に疎開をし祖父母の家に世話になった。この時通ったのが徳島県那賀郡羽ノ浦町立岩脇国民学校であり、卒業が終戦の翌年度の1947年の3月である。この4月から3年間の新制中学が発足し同じ場所での中学(町立羽ノ浦中学校)に通うことになる。それまでは尋常科の生徒が使っていた教室が中学になっただけである。


1945年8月15日についにというか、やっとというか我が政府は勝ち目なしと気付いたのか、ポツダム宣言を受託降伏したのである。この日は夏休みで朝から妙見山の中に陸軍の通信基地があり、そこへいつものように遊びに行っていたら、今日は天皇陛下からの放送があるから家へ帰って聴きなさいというようなことを兵隊さんから言われたのが、この日であった。

戦後民主教育体制が敷かれ、いわゆる六三三制となるまで、すなわち国民学校の最後に6年生で卒業する年には受験すべく準備していた中学校は、新制高校となり、われわれは義務教育となった新制中学校へ進む。場所も担任の先生も変わらず国民学校で2年間担当だった石川先生が英語や数学、国語などほとんどの科目を担当された。


1950年すなわち昭和25年に高校生になった。もちろん高校の前は戦後新たに生まれた新制中学に通った。



1953年(昭和28年)の4月から早稲田大学第一理工学部工業経営学科に入学する。

そこで、やはり、自分史の一部に必ず書かなければならないことになる日本フィルハーモニー管弦楽団(略して日フィル)への想いについて記しておこうかと思います。

このオケが創立されたのは、わたしが大学4年生になった年、すなわち1956年(昭和31年)の筈です。というのは、この日フィルの創立記念演奏会が確か9月23日の祭日に、当時はコンサート会場はこれしかなかったといってもいい日比谷公会堂で開かれたのです。

私は、この年の夏休みは、卒論を書くためのネタの収集をしていて、東京通信工業(現在のソニー)の五反田の工場や松下電器(現在はパナソニック)の門真の工場、いまではなくなっている神戸工業の神戸の工場などへ調査に行きました。卒論のテーマは、『電子工業における生産の自動化に関する研究』というものでした。

この卒論については、まだいろいろな思い出がありますので、これについてはまた後日書きたいと思いますが、このころちょうどドイツのシュトックハウゼンやアメリカのジョンケージなどに代表される現代音楽=前衛音楽が盛んで、日本でも黛敏郎、一柳彗などが盛んに自作の演奏会を開催していたりしたのです。 会場は、第一生命ホールや草月会館など。

そして私の音楽好きが高じてこのオケの音を録りたいと思うようになっていたのです。