2016年2月5日金曜日

田舎生活


四国の田舎での生活は、今では良い経験をしたと思っている。


それは、東京での生活では経験できない農家の人々と接する機会もあり、

農繁期には学校が休みになり、お年寄りや4歳から15歳も年上のマタ従兄弟たちから

いろんな話が聴けたことなど、書きだすときりがない。


終戦になり、招集から帰郷した軍人たちがたくさん周りにいることになったのだが、

その中でも、海軍に入っていたマタ従兄弟が学校が9月の農繁休みの時に復員して

兄弟たちと喜び合っている場に私もいた。


新入り軍人のしごきの有様について話していたのが、今でも鮮烈な印象として脳裏に

残っている。そしていとこの男兄弟全員が揃って終戦を心から喜んでいたのだ。


「まったくバカな戦争したもんや」と話していたのをきいて、わたしも納得したのを

憶えている。


祖父母のもとへ疎開したのだが、そこは父が小学校5年生の時に養子に入った先である。

祖父は一樂家の長男で一樂善蔵さん、弟に良平さんがおり、この良平さんは、少し川上

にある農家の田村家へ婿養子に入ったのである。


その三男として生まれたのが父照雄である。父の兄弟は8人もいた。長男は早逝して

次男が田村理一、親は長男として家督を継いでもらうつもりで名付けられたのだろう。


しまったが、


その善蔵さんは、那賀郡羽ノ浦町大字岩脇字町筋20番の3というに地番で米屋を

していた。

われわれ親子が疎開した時には米屋を中心のお店はやめて引退していた。


いまとなっては祖父は、慶応年間の生まれで、何歳であったか分からないが、

祖父が亡くなった時の田舎でのお葬式の風景は、ところどころ思い浮か

べることができる。



      当時は、土葬で樽型のお棺に入れてそのまま土中に埋める

というやり方であった。家の前でいわゆる告別式の様なことをやって、

お棺を二人が担いで、その後ろを親族がぞろぞろと付いて歩き墓場まで

行き、お墓の一角に穴を掘りそこにすっぽりと埋め込み上から土を

被せる。きっとその後墓石をそこにのせたりしたのだろうが、その辺は

まったく憶えていない。


      その後祖母は未亡人としてだいぶ長生きしたが、最後は独り

で暮らしていて、父がよく家での話題にしていたので、憶えている。それは

私たちが疎開した1944年当時すでに祖母は相当に耳が遠くなっており、

祖父がよく怒鳴るような大声で、話さなければ通じない状態であった。


      父の実家、すなわち一樂家の養子になる前の生家は、同じ町の

那賀川の少しばかり上流にある同じ町羽ノ浦町の字古毛で農業を営んでいた。


      ここで私のご先祖さまのことにも触れておいた方がよいかもしれない。

      
      というのも、一樂という私の姓も珍しいのだが、これは元々私の姓は

土屋というのである。先祖は、甲斐の国の武田家の家臣として仕えていたが、