私は国民学校1年から3年までの3年間を渋谷駅からすぐの当時の地番で
桜が丘15番地に住んでいた。
その後戦後になってかなり経ってからだが、東京のほとんどの区域が町名が
変更になったり、番地表記も変わったところがほとんどの様な気がする。
国民学校1年生になった年は、紀元2600年ということで、盛んに国威発揚の歌
がうたわれたのもこのときである。
さまざまな記念行事などが行われ市電は花電車などが走ったと思う。
その時のお祭り騒ぎの記憶は僅かに残っており、歌もラジオで流されたのか、
いまでもそのメロディーは耳に残っているほどである。
学校でも歌わされたのかも知れない。
また、体操の時間に教えられたのか手旗信号を憶えたのもこのころである。
というようなことを書いたが、紀元2600年は、その後少し調べてみたら
1940年(昭和15年)の11月に盛大なお祭りが行われたようだ。
したがって、私が国民学校へ入学する前の年だったということになる。
当時、渋谷から神田須田町へ行く市電が走っていて、それが花電車になって
走っていたのを子供心に覚えてもいる。
したがって、我が家が代官山から桜ヶ丘へ引っ越しをしたのも、1940年だった
のかもしれない。(訂正:2009年5月11日)
庭には母親が防空壕を掘っていた。しかし、そんな女手で掘った防空壕が
どれほどの大きさだったのか、私は7歳から8歳になっていたはずであるが、
今になるとハッキリは覚えていないと言った方がいいくらいあやふやである。
父親が手伝っていた姿などは一切記憶もないところから見ると、まったく
手伝っていなかったのであろう。
紀元2600年の奉祝歌のようなものは、ラジオから流れるのを聴いて覚えたか
であろうとすでに書いたが、そのころが学校での唱歌としてはどんなのが
歌われていたのであろうか。私は、歌を唄うのががとても好きであったが、
「ここはお国と何百里離れて遠き満州の、、、、」や、「どんとどんとどんと波乗り越えて~、、、」
などというのを覚えた。
その頃のわが家の2階には、いわゆるゼンマイ式の蓄音器があり、
他には、廣澤虎造の浪曲の何枚組ものSPがあったのも憶えている。
したがって、浪曲も外題はまったくもう忘れてしまったが、親なしててごの哀れを誘う話で、
今でいう義理人情物語というべきものであったと思う。
ほかには、淡谷のりこか高峰三枝子だったかいわゆる流行歌のレコードもその頃聴いて
覚えた記憶がある。
また、ちょうどその頃、上原謙と高峰三枝子主演の映画『愛染かつら』かなにかのロケも
わが家の前の通りで行われ、内容は全く分からないままに見ていた覚えもある。
その頃はまだ映画というものも一度も見た経験もなかったころである。
それでも映画というものの世界がスターたちの服装などから華やかな世界をあつかった
ものじゃないかという想像は働いていたようだ。
しかし、何度も何度も同じシーンを撮り直しの連続であったのを今でも鮮明に記憶に
残っている。