2008年9月7日日曜日

気が向くまま

 このブログのタイトルを自分史としたのはいいのですが、いざとなると全体の構成を考えたり、どのくらいの量を書くかというような制約はいっさい設けないでいいところが、このブログのいいところなのかもしれない。そこで、先ず自分の出自から書くのが常道であろうか。

 私は、一樂照雄と寛子の間に長男として1935年3月16日に生まれた。産声(うぶごえ)をあげたのは、東京の渋谷の「日赤産院」。いまも同じ場所にある。母は、1912年(大正元年)の5月7日生まれだから、私は23歳(満22歳)の時の子ということになる。ちなみに、父照雄は1905年7月21日生まれだから、30歳(満29歳)であった。母親は、私を生む直前までいまもある目黒区立中目黒小学校の教員をしていたが、直前まで勤めていたようだ。
 父は、当時は名前が産業組合中央金庫と言っていたかもうすでに農林中央金庫という名称に変わっていたかどうかは調べないと定かではないが、そこのサラリーマンであった。住まいは、当時としては高級な?代官山アパートを借りていた。そこには私が小学校へ入る直前までいた。それは1941年になってからか、1940年の何月だったかは覚えていないが、引っ越したさきは、当時の番地で渋谷区桜ヶ丘15番地へ引っ越した。現在ははそこは南国酒家という中華レストランになっている。したがって、私は渋谷区立大和田小学校へ入学した。しかし、当時は軍国主義をすすめる一環で、名前が小学校から国民学校へかえられ、教科書も全面的に改訂された年である。
 ちなみに、この学校は戦後もずっとあったが、数年前に通りかかったら生徒数が減少したのか廃校になり区民図書館という看板になっていた。

 つづく


 

2008年9月3日水曜日

はじめに

 自分史をこのブログで書き留めておくことにする。
 
 自分のことについては、こまめにメモを取っている方もおられますが、私は手帳に予定を書き込むことはしていても古くなれば捨ててしまうために、いまさら利用もできないが。
 
 しかし、タイトルをこのように決めてしまったので、これでなるべく記憶が薄れないうちに書いていきたいと思っている。
 
 では、お楽しみに。