1941年は、我が国政府は、参謀本部の思うままにさらなる戦争へ向けて突き進む時代であったが、私はこの年の3月16日に6歳になっていた。したがって、4月からは小学校へ入ることになっていた。前にも書いたがこの名前が私にとっては突如、国民学校と名称が変わったのだ。
名称だけでなく、それまでの小学校の教科書とはがらりと変わり。国語の最初は、「アカイ アカイ アサヒガ ノボル」で始まっていた。その次のページは何だったかもう思い出せなくなっている。担任の先生の名前は、三浦先生。40歳前後のベテランの女性の先生で、すらっとしたスマートな先生であったのを子供心に憶えている。
幼稚園には通った経験はない。母がいうには、私が行きたくないというから行かせなかったということだった。そしてその頃の一般的な風潮としては、幼稚園にみんなが行くということでもなかったようだ。その頃の級友の一人には、田中亮三君がいる。彼はのちに慶応義塾に入り、英文学を専攻し、そのまま母校の英語の先生をやり、順調に学者の道を歩んできたようだ。
私は、1944年(昭和19年)の4月、すなわち4年生になるときに、父親の郷里にいた祖父母の家に一家で疎開をすることになり、当時の友達とは別れてしまった。したがって、私は大和田国民学校(終戦になって再度、名称変更で小学校となった。)を途中で、徳島県の那珂郡羽ノ浦町の岩脇国民学校(のちの岩脇小学校)へ転校させられたわけである。
ブログを利用して『一樂信雄の自分史』のタイトルのもとに書き始めましたが、書く順序にこだわり過ぎるとなかなか書けないことに気付き、わが人生に関係のあることは順序にこだわらず書きとめることに方針変更しますので、よろしく。
2008年10月10日金曜日
2008年9月7日日曜日
気が向くまま
このブログのタイトルを自分史としたのはいいのですが、いざとなると全体の構成を考えたり、どのくらいの量を書くかというような制約はいっさい設けないでいいところが、このブログのいいところなのかもしれない。そこで、先ず自分の出自から書くのが常道であろうか。
私は、一樂照雄と寛子の間に長男として1935年3月16日に生まれた。産声(うぶごえ)をあげたのは、東京の渋谷の「日赤産院」。いまも同じ場所にある。母は、1912年(大正元年)の5月7日生まれだから、私は23歳(満22歳)の時の子ということになる。ちなみに、父照雄は1905年7月21日生まれだから、30歳(満29歳)であった。母親は、私を生む直前までいまもある目黒区立中目黒小学校の教員をしていたが、直前まで勤めていたようだ。
父は、当時は名前が産業組合中央金庫と言っていたかもうすでに農林中央金庫という名称に変わっていたかどうかは調べないと定かではないが、そこのサラリーマンであった。住まいは、当時としては高級な?代官山アパートを借りていた。そこには私が小学校へ入る直前までいた。それは1941年になってからか、1940年の何月だったかは覚えていないが、引っ越したさきは、当時の番地で渋谷区桜ヶ丘15番地へ引っ越した。現在ははそこは南国酒家という中華レストランになっている。したがって、私は渋谷区立大和田小学校へ入学した。しかし、当時は軍国主義をすすめる一環で、名前が小学校から国民学校へかえられ、教科書も全面的に改訂された年である。
ちなみに、この学校は戦後もずっとあったが、数年前に通りかかったら生徒数が減少したのか廃校になり区民図書館という看板になっていた。
つづく
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