2014年12月18日木曜日

my historyを復活させます。

長い間さぼっていました。



どこまで書いたかを自分でも忘れるほど、これには書いていませんでした。


中断していた一つの理由は、父方の祖母の名前がすんなり出て来なくて、

どうにか調べて正確な名前を記しておかねば、と思ったからなのです。


しかし、それにしても長い休止でした。


今日までの間に人それぞれ様々なことがあったことと思います。


わたしは根が気楽なせいか、過去にどういうことがあったかなど、


きちんと憶えていられないのです。



とはいっても、先日の14日の日曜日には、まだ2年しか経っていないのに

解散総選挙をやり、安倍のバカたれ総理のおかげで、子供時代のいやな

戦争に伴う経験を否が応でも思い出させられました。


同時代の有名人、三輪明宏氏はじめ、大橋巨泉氏、宝田明氏、

故菅原文太氏、倉本聡氏などが一斉に安倍内閣の戦前を思わせるような

方向への回帰について、反対を表明しています。


吉永小百合は、これらの人々よりも若いけれども同じように声を上げて

いたのが印象的です。

それにしても、小泉、細川元総理組は選挙中は動かなかったのか、

なにも聞こえて来なかったのは不思議だ。

もっと反原発を彼らが争点にしてくれることを期待していたのに。


マスコミが無視したのかも知れないですが。わたしとしては彼らにも

期待しているんだけどなぁ。


My historyから話がそれたと思う方もいるかな?

こういうことも後日は「わたしの」という形容詞はとれるものの、

わが国のヒストリーとしては上にあげた人々のことは、残しておきたいと思う。


今後はわが履歴にかかわりそうな事柄については、なんでも書くことにして

いこうと思う。


次回からは1940年代にもどって書くようにしよう。



2011年12月30日金曜日

今年もあと1日

あすは大晦日、ことしもあっという間の一年でした。

昨年の6月21日以来、体調を元通りにすべくリハビリにこれ努めてきましたが、なんとも歯がゆい想いをしました。

いまなお完全に元通りという訳にも行かず、熱いものや冷たいものを一気に口へ入れたりすると、上下の歯のほとんどが痛くなったりするんです。

耳の副作用もいまだ完治せずですが、前回の診断では良くなっているということだったのでやれやれです。

今日は玄関と自分の部屋の大掃除をしたのですが、まだ明日にも書類類の整理が残りました。あすも頑張ろう。

2011年12月25日日曜日

Merry Christmas !!!

Hello,  how are you ?


I'm fine !


I can't use any Japanese chracters in this page. I want to get some help from anyone.

How can I do for writing down here in Japanese ?

2009年7月30日木曜日

暑中お見舞い申し上げます

もうすぐ8月、このところの暑さにはバテ気味です。PCのそばにいるだけでも暑く、このところ、わが来しこのかたの記録も容易な作業ではないことを、実感する今日この頃です。



すでにだいぶまえのことになってしまいましたが、CCC Forumの第2回目のセミナーは47名のみなさんの参加を得て開催されました。講師の松井栄一(しげかず)先生は1926年生まれとのことですから84歳でしょうか。かつての武蔵高校時代の教え子も多数参加されました。私の同期では、大島亮君、佐波吉男君、柴田翔君、山田卓郎君が来られ、大坪秀二先生も来ていただき他の期の皆さんも来られたので、終了後のビアパーティは武蔵高校のミニミニ同窓会風といってもよい形になり、4時半から6時までの予定もあっという間にお開きとなりました。

次回は秋に開催する予定にしていますが、会場の都合と講師の都合を調整がいまのところ未だついておらず公表できないのが残念です。

2009年7月17日金曜日

情報システムのオープン化

かなり時間が経つと日々のことを書いておけば、それが結局は「自分史」のかなり正確な記述として残すことができるし、それをあとで自分が生きているうちは編集も出来るだろうしということで、日記風に記録しておくべきかな、と思ったりもしている。

そこで早速、今夜 T.UさんとS.H教授を交えて新宿の小田急デパートのか中の中華屋で久しぶりに会食して、そこで出た話について書いておきます。(今夜と書きましたが、既に0時を過ぎているので、もう昨夜のことと書くべきことに気づきました。)

そこでの話題は、我が国のe-Japan計画に関連し、地方自治体の基本的な経営のために必要な会計・管理情報システムや人事情報システムのコア部分はどこも利活用可能なのである。したがって、大学が自治体やSI venderと協力して、それらの成果をオープン化する構想をT.Uさんが構想しており、S.H先生の大学でやれると三者win-winの関係が出来るということで話は盛り上がりましたが、結局は学内の専門家と思っている先生方ほど、こういう合理的で我が国の資源の有効活用という構想には乗ってこないからという、この場ではやや盛り上がりに欠ける展開となってしまい、わたしもなんとかサポートできればと考えました。

今後の我が国のかけ声だけでなく、真の情報化が実現されるのはいつのことやら。

政府主導のe-japanであれ、名前がi-japanになったところで、住民サービスとはほど遠い一部の役人と御用学者にとっての自己満足の情報化では公費の無駄使いである。やはり、企業の情報システムと同じく経営管理面で利用できるシステムと、住民サービスのためのシステムとをトータルに設計開発ができなければ使える情報システムとは言えない。我々3人としては今後の可能性を継続して探そうということで別れた次第。



2009年7月13日月曜日

イギリスを知る会

しばらくサボっていましたが、履歴書なるものを書こうと思うと、結構手間暇がかかるということも分かり、また忘却の彼方となってしまい、どうしても思い出せないことがこのままでは益々増えるばかりでもあります。

ま、それは兎も角、昨夜の夕食はなにを食べたかも思い出せないくらいですから、仕方ないのかも知れません。

そこで、もう先週末イギリスを知る会がいつもの中央大学駿河台記念館で開かれたreport 。

今回の講師は、イギリスで7年間滞在し勉強もされて来たViolinistの小林倫子さんでした。テーマは、『イギリスと日本の音楽教育 ~私の音楽留学体験より~』で、大変興味深いお話でした。

概要は、桐朋学園大学在学中に、家の事情がきっかけとなり渡英、イギリスの名門音楽大学Guildhall of Musicに入学しました。

どちらかというと、おとなしい内気な小林さんは、読む、書くはできても話すこととhearingが100%近く出来るようにということを、彼女のviolinのレッスンを受け持つDavid Takeno先生は、彼女にこういった言ったそうです。

violinを弾くにも、西洋の文化を吸収しなければ西欧人の作曲家の作品を理解するにも大事なことと言われて、学生生活を送ったということです。

現在、日本で演奏、教育活動をしながら、留学時代を振り返ってみると、色々なことが見えて貴重な経験をされてきたんだろうな思いました。日本人が西洋音楽を学ぶということと、西洋人が西洋音楽を学ぶということの違いで、楽器を弾くという技術だけでなく、自分の感性がほとばしる様な演奏をということをその時以来心がけているということです。当時すでに80歳になっていたviolinistのRuggiero Ricciの演奏を聴いて、この人でなければ弾けないような演奏にはとても心惹かれるものであったと言われていました。

ですから、人に感動を与えるアーティストは、つけ刃でない身に付いたものが表に現れるから日頃の精進ということでしょう。役者でもたとえば貴族の役ができるのは、それなりの育ちでないと、振る舞い一つきちんとできないという話を聞いたことがあります。それに共通するものが、音楽の表現にしても知らずのうちに醸し出すものかとおもいました。

そして、イギリスの音楽大学Guildhall School of Musicでのカリキュラム、授業内容を、日本の大学と比較しながら紹介して下さいました。イギリスの大学は、卒業にあたっては、必ず順位をつけて合格、非合格を発表し、学生が喜んだり、泣きべそをかいて落胆している女子学生などの光景を、私も何度か見ていますが、小林さんは、見事 master of musicの修士号を首席で修了されています。naitiveに伍してトップを勝ち取るという、難関を突破されたのですから、この方は努力を努力とも思わないで、徹頭徹尾大学でのカリキュラムをきちんとこなして来られたことに敬意の念を抱きました。

見かけは良家のお嬢さんという感じで、とてもそんな立派な経歴を持った方とは思えないほどですが、人は見かけによらないということを改めて実感しました。小林倫子さんに「馬鹿言わないで」といわれそうですが、、、。

なお、彼女のprofileは、以下ですので、参考にしてください。

小林倫子profile:5歳よりヴァイオリンを始める。
桐朋女子高等学校音楽科を経て、桐朋学園大学入学、徳永二男氏に師事。
1997年9月より、ロンドン・ギルドホール音楽院に入学。
2000年、同音楽院からの交換留学生として、ドイツ、ロベルト・シューマン音楽大学にて研修。
2001年、ギルドホール音楽院学士過程主席卒業、翌年修士課程修了。
2003年、コンサート・リサイタル・ディプロマを取得。

その後、室内楽研究員として在籍。在学中は同音楽院からフルスカラシップのほか、野村国際文化財団からも助成を受ける。

クロイドン・シンフォニーオーケストラ・ソリスト・アワード優勝、第69回日本音楽コンクール入選、北ロンドン音楽祭・無伴奏バッハコンクール 優勝、リピッツァー国際ヴァイオリンコンクールにて特別賞受賞。その他国内外にて多くを受賞する。

ソリストとして、クロイドン・シンフォニー・オーケストラ、エプソム・シンフォニー・オーケストラ、ギルドホール交響楽団と共演。ウィグモア・ホールをはじめ、ロンドンの主要リサイタルホールにてリサイタルを開催。

2004年より浜離宮朝日ホールにて定期的にリサイタルを開催。
2009年、ソリストとして東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団と共演した。

現在は日本を拠点に、室内楽、無伴奏リサイタルなど、幅広く活躍中。
2005年より始まった国際音楽講習会「アップビート春期国際音楽セミナー・イン中札内」にてアシスタントをつとめる。 国立音楽大学付属中学、高等学校講師。

いずれ機関紙"Ladies & Gentlemen"にお話の内容が掲載されますので、ご覧になりたい方はお申し出ください。

志村博氏とも久しぶりに会えました。前々日にケンブリッジから来たばかりだということで、Cambrige そばのGlanchester村の有名なリンゴの木の下のCafe から、私たちのために本場のsconeをたくさん持参いただきました。

そして、偶然にも、私が前から知っている松本花奈さんHarpistと志村さんが連れてこられた岩城晶子さんもHarpistということで珍しくも二人のHarpistsにお会いすることができて、あとの小林さんを交えての歓談もあっという間に時間が過ぎた感じでした。

2009年5月4日月曜日

渋谷 桜ヶ丘での生活

私は国民学校1年から3年までの3年間を渋谷駅からすぐの当時の地番で

桜が丘15番地に住んでいた。


その後戦後になってかなり経ってからだが、東京のほとんどの区域が町名が

変更になったり、番地表記も変わったところがほとんどの様な気がする。


国民学校1年生になった年は、紀元2600年ということで、盛んに国威発揚の歌

がうたわれたのもこのときである。


さまざまな記念行事などが行われ市電は花電車などが走ったと思う。


その時のお祭り騒ぎの記憶は僅かに残っており、歌もラジオで流されたのか、

いまでもそのメロディーは耳に残っているほどである。

学校でも歌わされたのかも知れない。

また、体操の時間に教えられたのか手旗信号を憶えたのもこのころである。


というようなことを書いたが、紀元2600年は、その後少し調べてみたら

1940年(昭和15年)の11月に盛大なお祭りが行われたようだ。

したがって、私が国民学校へ入学する前の年だったということになる。

当時、渋谷から神田須田町へ行く市電が走っていて、それが花電車になって

走っていたのを子供心に覚えてもいる。

したがって、我が家が代官山から桜ヶ丘へ引っ越しをしたのも、1940年だった

のかもしれない。(訂正:2009年5月11日)


庭には母親が防空壕を掘っていた。しかし、そんな女手で掘った防空壕が

どれほどの大きさだったのか、私は7歳から8歳になっていたはずであるが、

今になるとハッキリは覚えていないと言った方がいいくらいあやふやである。

父親が手伝っていた姿などは一切記憶もないところから見ると、まったく

手伝っていなかったのであろう。

紀元2600年の奉祝歌のようなものは、ラジオから流れるのを聴いて覚えたか

であろうとすでに書いたが、そのころが学校での唱歌としてはどんなのが

歌われていたのであろうか。私は、歌を唄うのががとても好きであったが、

「ここはお国と何百里離れて遠き満州の、、、、」や、「どんとどんとどんと波乗り越えて~、、、」

などというのを覚えた。


その頃のわが家の2階には、いわゆるゼンマイ式の蓄音器があり、

他には、廣澤虎造の浪曲の何枚組ものSPがあったのも憶えている。

したがって、浪曲も外題はまったくもう忘れてしまったが、親なしててごの哀れを誘う話で、

今でいう義理人情物語というべきものであったと思う。


ほかには、淡谷のりこか高峰三枝子だったかいわゆる流行歌のレコードもその頃聴いて

覚えた記憶がある。


また、ちょうどその頃、上原謙と高峰三枝子主演の映画『愛染かつら』かなにかのロケも

わが家の前の通りで行われ、内容は全く分からないままに見ていた覚えもある。


その頃はまだ映画というものも一度も見た経験もなかったころである。


それでも映画というものの世界がスターたちの服装などから華やかな世界をあつかった

ものじゃないかという想像は働いていたようだ。


しかし、何度も何度も同じシーンを撮り直しの連続であったのを今でも鮮明に記憶に

残っている。