2009年2月20日金曜日

イギリスを知る会

以前、先月の18日に行われた「イギリスを知る会」の新年パーティについて触れましたが、この会は、スタートから今年4月で早いもので20年目に入ります。


簡単に紹介をしておきますと、 「イギリスを知る会」は、イギリス大好き人間の集まりです。1990年4月に現会長の英文学者の宮崎昭威(みやざきてるたけ)先生と活動を開始し、事務局の運営はすべてボランティアで、原則として奇数月の第2土曜日に講座や懇親会などを開催しています。

宮崎先生との出会いは、1976年のロンドンでお会いしてよくパブへ誘っていただいたのがご縁で、このようなイギリスを対象に勉強をする会ができました。

私の専門は、当時から経営情報システム、そして大量生産システムの負の影響についてが関心分野でしたので、ロンドンのAldwitchにあるロンドン大学の政経学部と訳されているL.S.E.へ客員研究員として76年3月14日から翌年の3月末まで滞在していました。

その結果、帰国してからも宮崎先生とはよくお会いしておりましたが、なにか楽しみながらイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドなど英国各地の歴史・文化、文学、映画・音楽、教育、生活習慣、その他さまざまな分野について勉強する場をつくりませんか。ということから、講師の方々のお話を聞き、講演の後では講師の先生の時間が許す限り、お茶などを飲みながらおしゃべりをしています。

また、1993年からイギリス各地の旅に関して多くの著作がある宮崎昭威中央大学名誉教授による小人数の「鉄道でまわる英国の旅」の企画が始まり、英国各地を訪れています。

会員登録された方には、隔月でセミナー・懇親会のご案内やニューズレター「Ladies & Gentlemen」(不定期刊)をお送りするほか、セミナーの参加費が割引になります。(入会金1,000円、年会費4,000円、払込み日から1年間有効)

イギリスへ行ってみたい人、イギリス映画が好きな人、英国紳士に憧れている人、紅茶を飲まないと落着かない人等々、とにかくイギリスに興味がある方は、ぜひ一度参加してみてください。

事 務 局 長:横山 保子(フリー・コーディネーター)
局員:木谷 朋子(旅行ライター&フリー・エディター)、工藤 みゆき(人形作家、文筆家)、竹村 明子(フリー・ライター) などの優秀な方々によって支えられています。

イギリスを知る会 第113回セミナーのお知らせ


テーマ:「イギリスの鉄道民営化とその結果」

講 師: 安藤 陽 さん(埼玉大学教授)


日 時:3月14日(土)午後2時30分~4時30分

場 所:中央大学駿河台記念館 620号室 電話(03)3292-3111 (千代田区神田駿河台3-11-5)
http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/access/access_surugadai_j.html


参加費:会員(および同伴者)2,000円 ビジター 3,000円


参加申込み:「イギリスを知る会事務局」 メール(ssbcjapan.sky@orange.zero.jp)またはFAX(03)3407-8995 

以下は、安藤陽先生からの自己紹介です。

「イギリスを知る会」で報告の機会をいただき、ありがとうございます。 私は、現在、埼玉大学経済学部で経営学を教えています。

専門は公企業論です。特に、日本の国鉄改革や、JR、第三セクター鉄道の経営問題を中心に研究しています。 20歳代後半に一度ヨーロッパ旅行でロンドンに立ち寄りました。

その時の印象は大変悪かったのですが、多くの人が好きなロンドンやイギリスですので、きっと何か素晴らしいところがあるはずだと考え、その時に、今度はイギリス中心に来ようと決めました。

大学に職を得て、1980年代半ば以降、British Railなどの調査や資料収集で度々イギリスを訪問し、イギリスが好きになりました。1998年には在外研究で10ヶ月間ロンドンに滞在し、イギリスの鉄道民営化について調査・研究をしました。

今回の報告では、イギリスの鉄道事業の発展に触れながら、鉄道民営化の構造とその問題点を指摘したいと考えています。日本でもJR福知山線事故が発生しましたが、イギリスでも民営化後、重大事故が頻発しており、鉄道民営化と安全輸送との関係が重要なテーマとなっています。この点に関して、最近の深刻な問題も紹介したいと思います。

パワーポイントを使い(「電子紙芝居」の域をでませんが)、写真を多用しながら、皆さんが経験されている「イギリス鉄道の旅」を再現しつつ、イギリス鉄道民営化とその結果をご理解いただければと思っています。[以上]

お問い合わせは、イギリスを知る会 事務局 横山ssbcjapan.sky@orange.zero.jp へお願いいたします。

私は、安藤先生とは彼が大学院生のころからのお付き合いで、ロンドンでも一時期一緒だったことがあります。今すぐには何年の何月からだったか正確には思い出せませんが、なかなかいいフラットに住んでおられたような気がします。また彼と確認してそのあたりのことも書きたいと思っています。

3月14日(土)の午後に時間のある方は、どうぞお出かけください。彼のお話を聴けるのを楽しみにしております。

受付では私からの紹介と言っていただければ会員料金になるはずです。

2009年2月17日火曜日

楽しみながら学問しよう!

今日は私が2001年の4月から「楽しみながら学問しよう!」をモットーにして、独断と偏見で細々?と続けてきたCCCF(Cross Cultural Communication Forumの略)について、来年度の最初の企画が進んでいますが、その概要をお知らせしておきたいと思います。

イタリア人のバリトン歌手 ロベルト・ボルトルッツィROBERTO BORTOLUZZIさんのリサイタルを企画しました。ピアノは、峯川 知子さんです。

日時:2009.4.12(日) 開演14.00 (開場13.30)
場所: 四谷区民ホール
料金: 3,500円(全自由席) 

です。
曲目など詳細は決定次第、お知らせいたします。

プロフィール
ROBERTO BORTOLUZZI: イタリアのトレヴィーゾ生まれ。往年の大ソプラノ、イヨランダ・ミキエーリに17年間師事。2000年インターナショナル“マリア・カラス”コンクールでセミフィナリスト。その後ソリストとして活動を開始する。2003年“エンツォ・ダラ”コンクールで1位。ヴェルディのオペラではリゴレット、椿姫(ジェルモン)、ナブッコ。プッチーニのオペラではトスカ(スカルピア)、ラ・ボエーム(マルチェロ・ショナール)でデビューするなど数多くの作品に出演している。2007年にはドニゼッティの愛の妙薬のドゥルカマーラでデビューするなどオペラ・ブッファの喜劇役としても才能を発揮している。今年1月にはボエーム(マルチェロ)をクラウディオ・デズデーリの指揮でデビューし好評を博した。現在、若手でベルカント唱法を継承しているイタリアでも数少ない貴重な本格的なバリトン歌手である。

峯川知子: 現在、イタリアにおいても残念ながら正統的なベルカント唱法で歌う歌手は少なくなっており、またそれを指導するマエストロ(先生)もほとんどいないのが現状である。そんな中、ベルカント唱法を継承していた世界3大バリトンの一人(故)アントニオ・サルバドーリ氏から直接その本物のベルカント唱法を伝授された峯川知子氏は、この貴重な教えを日本に伝えたいと歌手への指導やコンサートの活動、ピアニストでありながら自らもベルカント唱法によるソプラノリサイタルを行う。2年前よりボルトルッツィ氏と共にマスタークラスを開催し、イタリア・ヨーロッパ各地でオペラピアニストとして活躍する傍ら、サルバベルカント代表として、イタリアと日本を往復しイタリアオペラの普及にあたっている。

2009年2月7日土曜日

小林倫子さんのリサイタル

これは、先月1月18日に赤坂で行われた「イギリスを知る会」の新年パーティに、ケンブリッジ在住の日本人アーティストの志村博さんも参加され、そのとき我が国で若手バイオリニストとして注目されている小林倫子さんを同道されました。彼女は、ロンドンに7年間住まわれていた方です。

今回、彼女から以下のようなメールをもらいましたので、ご本人の了解を得て転載させて頂きます。


こんにちは。 イギリスを知る会の新年会では、お会い出来て大変光栄でした。突然の余興で演奏させていただき、とても楽しかったですが、コンサートの場では、また別の印象をお楽しみ頂けることと思います。2月11日(祝)に東京でリサイタルを開催いたしますので、ご都合がよろしければ是非お越しください。知られざるイギリスの曲も、演奏します。(わたしのHPへリンクします。)

私は大学生からの7年間をイギリスで過ごしました。イギリスを第2の故郷と思っていますが、一方ではまだまだ知らない事がたくさんあります。

例えば、私はずっとロンドンに住んでいましたので、それ以外の街はあまり知りません。それが昨年、たまたま縁あってケンブリッジでコンサートをしたところ、偶然が重なり、イギリスで活躍する志村氏と知り合うことが出来ました。現在は日本を拠点としていますが、このような出会いを通して、これからもイギリスとの繋がりを継続し、強めていきたいと考えています。音楽や芸術だけでなく、色々な分野の方とも交流できれば、ヴァイオリニスト(表現芸術家)としての懐をを広げていけるのではないかと考えています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。小林倫子

上にある余興での演奏とありますが、まさに会場はせまくて立ちのパーティでしたから、わたしたち40名くらいが取り囲むなかでバッハのガボットとロンドを演奏してくれたのです。。さらにアンコールに応えてパガニーニのカプリースを弾いてくださいました。まじかで聴くプロのソロの演奏はまさに感激ものでした。このような難曲をサラっと弾いてみせるところは、さすがのものでした。

ということで、未だ時間の空いている方は是非一度足を運ばれることをお勧めします。

わたしは当日は別のがあって聴けないのが残念ですが、チケットはまだあるそうなので、どうぞお出かけください。

2009年1月29日木曜日

日フィル

このところ風邪をひきこんでしまい、憂鬱な日々を過ごしております。というのも、この冬はすでに一度ひいているので、まさかもう一度かかるとは思ってもいなかったからです。そのショックは小さくはありません。しかも症状は前とほぼ同じなのです。


というわけで、頭のめぐりもすっきりしないのでブログを書く気にもなれないというのが、本音なのですが、しかし、こういう時期こそなにもまとまったこと(例えば、自室の整理・掃除など)をする気力もないので、ブログを書けばいいのではと思い立った次第。ところが、コンテンツをなにも用意していないのです。


そこで、やはり、自分史の一部に必ず書かなければならないことになる日本フィルハーモニー管弦楽団(略して日フィル)への想いについて記しておこうかと思います。

このオケが創立されたのは、わたしが大学4年生になった年、すなわち1956年(昭和31年)の筈です。というのは、この日フィルの創立記念演奏会が確か9月23日の祭日に、当時はコンサート会場はこれしかなかったといってもいい日比谷公会堂で開かれたのです。

私は、この年の夏休みは、卒論を書くためのネタの収集をしていて、東京通信工業(現在のソニー)の五反田の工場や松下電器(現在はパナソニック)の門真の工場、いまではなくなっている神戸工業の神戸の工場などへ調査に行きました。卒論のテーマは、『電子工業における生産の自動化に関する研究』というものでした。

この卒論については、まだいろいろな思い出がありますので、これについてはまた後日書きたいと思いますが、このころちょうどドイツのシュトックハウゼンやアメリカのジョンケージなどに代表される現代音楽=前衛音楽が盛んで、日本でも黛敏郎、一柳彗などが盛んに自作の演奏会を開催していたりしたのです。 会場は、第一生命ホールや草月会館など。

そして私の音楽好きが高じてこのオケの音を録りたいと思うようになっていたのです。それにはいろいろと前があります。これについてお書き出すときりもないし、今日はやはり体調のこともあり、またのお楽しみということで、失礼します。






2009年1月5日月曜日

老人には仕事を、子供には自然と夢を!

  私の父は、ひとさまからの依頼で色紙を書いていたことがあります。それらにはよく『老人には仕事を、子供には自然を』とありました。このことは年寄りの心境をよく表していると思います。当時は自分は老人の実感は分かりませんでしたが、ここ数年前から世の中みんなが幸せになるには、これを私も受け継ぎたいと思うようになりました。でも父と同じでは能がないと思い、少し加筆して『老人には仕事を、子供には自然と夢を!』としたいと思い、機会あるごとに言ったり書いたりするように心がけています。

  夢を加えたのにはわけがあります。私は、昨年の3月末まで大学で教員をしていたのですが、新入生には将来の夢はということをきくようにしていたのですが、私には考えられないような返事がとても多かったのです。

  まず、「とくにありません。」というものが非常に多いのです。そして、さらに「あいた口がふさがらない」とはこのことだというようなことを平気でいうのです。「もっと遊びたいですからね。」というのです。私はこれを言われた時は、一瞬なにを言ってるのかが分かりませんでした。 

  それは、大学へでも入らなければどこかに就職をしなければならない、したがってまだ働かないで遊びたいからこの大学へ来たというのです。それが一人や二人でないことに私はほんとに驚きました。ですから、こういう学生たちは最初から専門の勉強をして社会へ出て困らないようにしようとか、社会貢献をこういうことでしようとかいう気概を感じる学生が全体の1割にも満たない程度なのです。


  まあ、東大をはじめ一流大学ならそういうこともないのでしょうが、いわゆるF大学すれすれのレベルの大学へ入ってくる学生にはこういう子ども=若者がとても多いということです。私たちの世代はそんなことはなかったように思います。それだけに大学教育はどうあるべきかなどと、こちらが真剣に考えてものってくる学生は1割いればいいほうだということになっているのが現状なのです。


  結局、我々以後の世代が残した高度成長の恩恵に浴して夢もなくぬくぬくと育っている、恵まれた子供たちがあまりにも多いということなのでしょう。将来の天下国家や国のかたちを考えずとも生きていける環境ということなのです。しかし、こういう若者に接するにつけなんと今の閉塞感にそれほどの文句も付けないで大人しくしているのか、とても歯がゆい感じがするのは私だけでしょうか。

  ところで、わたし自身は、まだそんなに老人とは思っていないし、仕事もあれば何でもする覚悟はあるのですが、私が専門とする教育の仕事は未だ見つからず少々焦ってもいる感じになっています。区のシルバー人材センターのガイダンスに参加もしなければと思っています。先日、世田谷区内の新聞販売所でPC入力と集金の仕事ができるパートタイマーを募集していたので、応募しましたが、年齢ではねられてしまいまいた。若者も仕事がない最近の情勢では年寄りいじめもやむを得ないところもあるのかと考えてしまいます。

  それにつけても徳島県の勝西町の『葉っぱビジネス』は、わたしのこのモットーを実現していると感じています。これを仕掛けた××さんは素晴らしいと思います。余談ですが、わたしは、かって国民学校4年から中学1年まで徳島に暮らしたこともあり、一度訪ねてみたい町の一つになっています。

  新年が始まりもっと前向きな話題を書こうと思いながら以上のような中身になってしまいました。

  以上で新年最初のブログはこれで失礼します。

2008年12月29日月曜日

国民学校

 前にも書いたと思うが、小学校がなくなりすべて国民学校というようになり、教科書も全面的に変わった。

 国語の最初は、それまではひらがなだったのが、カタカナを学習するようになった。



アカイ アカイ アサヒガノボル 



で始まったと思う。ひらがなも漢字もある程度はすでに読めるようになっていたので、学校の勉強で困るようなことはなかった。したがって、自宅で予習復習などをするようなことはしなかったと思うし、今の子供のように、自分の学習机などを与えられるようなこともなかった。

 

これはなにも我が家だけでなく、そういう生活が一般的だったんだと思う。

2008年11月15日土曜日

代官山・桜ケ丘時代のこと

 わたしが生まれた時には、代官山の同潤会のアパートに住んでいた。そこには5,6年居た勘定になるのだが、私のすぐ下に妹がおり、その又下に弟がおり、当時は5人家族であった。しかし、徳島の田舎から父の4歳年下の妹が同居していた。それでいかにも狭いので、もうひとつ借りていた。わたしもその叔母に誘われてそちらの方で父母とは別に寝泊りをしていた。

 代官山での思い出は、夏には近くの西郷山へ父と蝉取りに行ったのをいまでもよく想い出す。信号の名前で残っており、よく車で都心から我が家へ帰るときに通るところだ。また、父との想い出は、夏どきなど夕食後によく散歩に行こうと誘われ、恵比寿駅の本屋へ連れて行かれたのを覚えている。そこでたまに絵本などを買ってくれたりもした。しかし、その頃はそれほど本や漫画には興味もなく「のらくろ」や「ふくちゃん」などの漫画の載った絵本は、子供でも見られる低い場所に置いてあったのは憶えているが、買ってくれとは言わなかった。

 丁度、学校へ上がる頃は、前にも書いたように、現在『南国酒家』という中華料理屋になっているビルのある場所へ引っ越した。当時の番地では桜ケ丘15番地である。今の地図では桜丘町14番となっている。おそらくこの後に**号という地番が付くのであろう。

 当時は、木造2階建ての住宅で、広さはどのくらいだったのだろうか、1階の玄関を入ると左側には食事をする部屋があり、その奥に台所と風呂場があった。玄関の奥には2階への階段があった。右側にはいくつ部屋があったのか記憶は定かではないが、食事以外の時間は1階の部屋で生活をしていたから二部屋以上あったかもしれない。2階には8畳の床の間のある部屋とその手前には、6畳の部屋には物干し用のベランダが付いていたのもよく憶えている。通りに面した側にあったので、ちょうどT字路の突き当たりだ。そのベランダに上がると区立大和田国民学校が正面に通る道路の左手に見えた。その頃は手前に校舎を遮る高い建物もなかったので、見通せたものだ。そして、手前の角にはコンクリートの建物があり、タイに関係のあるビルだと言っていた。そしてその向こうには、長尾医院というのがあり、そこには同年くらいの娘さんがいて、遊びに行って人気のあまりない広い家だなぁという印象が残っている。

 ちなみにこの家の大家さんはすぐ裏手にあり、我が家の玄関を出るとすぐ右へ行き、そのブロックの先を右折すると右側に立派なお屋敷と門構えをもったお宅があり、「蜷川」という表札がかかっていた。おそらくこの場所にあるいまのビルは、当時の蜷川さんの地所だったものであろう。蜷川家の門は、それは立派なもので、庭には大きな木が鬱蒼と生えていた。その門はいつも閉まっていて中の家がどうなっているかなどは知るよしもなかった。

 我が家にも南側にはそれほど広くはなかったが庭があり、その庭に戦局慌ただしくなるにつけ防空壕を掘ったりしていた。昭和17年から18年ころにかけてのことだったと思う。母が泥だらけになっていたのを覚えている。今思うと当時の母親はずいぶん大変だった。代官山時代は、我が家は叔母を含めると6人家族だったのが、桜ケ丘に引っ越した年の12月にはもう一人生まれている。開戦一週間が経った15日である。このときの事もよくおぼえている。それは母親が陣痛を起こし、病院へ行くことになり、早朝、渋谷駅の方まで降りて行きタクシーを拾いに出かけた。父親は出張で留守。同居していた叔母もどういうわけだったか、その日はいなかった。私は小学校(国民学校)1年生であったが、ここは自分がしっかりしないとという自覚をした最初の出来事だったような気がする。そうして兄弟が4人になり、我が家の家族も叔母を含めて7人ということになったのである。

 桜丘時代の学校での生活はどうだったかというと、私は3月生まれなので、同学年の中では一番若い方に近く、背丈は小さくクラスでは一番前だったかと思う。それもあってか、鉄棒とか跳び箱は苦手で、体操の時間が嬉しくなかったのは確かだ。1,2年の時はそれ以外の科目では負けることもなく順調に過ごせたと思う。1年生の時の学芸会では、みんなで芝居をやり担任の先生に褒めてもらい、その時から将来は役者になりたいと思っていた。(いまとなればお笑いだが。)しかし、その夢はすぐに砕かれることになる。これが私の挫折と言えば大げさだが先ずその第一歩を味わうことになる。(この続きは、また次回で。)

 いまとなっては、桜ケ丘に引っ越した時期は、昭和15年(1940年)の秋ごろから翌年の3月までの間ということくらいしか分からないが、父の夕食後の散歩の行先は、渋谷の道玄坂に変わった。
 当時の道玄坂は、百軒店の方までいわゆる夜店が毎晩のように出ていたのではないか。とにかく当時からとても賑やかだった。その夜店を見ながら百軒店の近くにあった「白十字」という洋食屋のよに入り、クリームソーダを食べるのが楽しみだった。その時、父親が何を食べていたのかはまったく覚えていないが。そして、帰りには夜店で「吹き矢」や「ひご飛行機」のキットを買ってもらったりしたものだ。
 
 小学校(当時は国民学校)での思い出は、まず入学式の2,3日前だったと思うのだが、母親に新しい運動靴の紐の結び方を教えてもらったのをいまでも鮮明におぼえている。それからそれよりももっと前に、道玄坂のだいぶ上の方の向かって左側にあった店で帽子を買ってくれた。区立の学校だから制服はなかったと思うが、帽子は紋章がありそれを付けたのを買ってくれたと思う。このときに随分頭が大きいといわれ(背が小さいのに)、お店のおじさんんが君は頭がいい証拠だというようなことを言われ子供心に嬉しかったのを憶えている。コンプレックスになるところをうまく救ってくれたようだ。
 戦争になってからはいつまでその夜店が続いていたのかは分からないが、そこで吹き矢やひご飛行機の組み立てセットなどを買ってもらった。
 当時の遊び道具といえば、大和田小学校(当時は国民学校)のすぐ前の角に文房具屋兼駄菓子屋のような店があり、親から1銭玉を一つもらってそれを握りしめてお相撲さんの写真を買いに行ったりした。当時はお相撲さんの写真が紙の袋に入れてあり、それらにひもを通して束ねてある。それをくじを引くように、その束の中から引っ張って取り、それで袋からとり出して初めてどのお相撲さんの写真かが分かるという仕組みであった。自分の欲しいお相撲さんだと嬉れてしいが、あまりファンでないのが出てくるとはずれという感じになるのだった。大きさは名刺くらいのものだったろうか。当時のわれわれはラジオでの中継は聴けたが、どんな大きさで体形がどうかなどというのはこういう写真でイメージを作っていた。恰好の良いのと、背ばかり高くていかつい骨格をしているなとか、そういう写真から得ていたわけである。中でも子供心に可愛いお相撲さんという感じでは、「照国」などという人がいました。他には、双葉山、羽黒山、男女川?いまになるとほとんど忘れてしまった。(続く)。